ケーティー

下妻物語のケーティーのレビュー・感想・評価

下妻物語(2004年製作の映画)
4.4
何度見てもメチャクチャ面白くて、スカッとする映画。

5年前くらいにDVDで鑑賞し、とにかく面白いという記憶があったので、改めて観た。
荒唐無稽な展開やケレン味溢れる飽きさせない映像表現もさることながら、やはり人物設定の深さとラストの着地が今までにありそうでなく、そのことに深みがあるのではないかと改めて感じた。

たしかに、主人公二人の人物の魅力は深田恭子さんと土屋アンナさんの天性の才能も大きく影響している。二人の芝居が、脚本や演出以上のものを出しているのではと感じるところもあるのである。
深田恭子さんはどこか厭世的で、プラスにもマイナスにも感情がない人物を突き抜けて演じており、徐々にその変化を出しつつも、ラストの場面ではそれまでとのギャップでインパクトがしっかり出ている。普通ならラストをいかにやりきるかに力点を置きがちだが、深田さんが凄いのは、意識しているのか意識してないのかはわからないが、そのラストを際立たせるためにいかにそれまでの演技・芝居をするかということがよく出来ていて、全体を意識して構築された演技・芝居なのである。だから、ラストの場面も、面白くありつつも、どこかそれだけに終わらない深みがある。また、このラストの場面は脚本が挿入するモノローグと音楽もうまく効いている。
また、土屋アンナさんはヤンキーとしてのインパクトもいうまでもないが、情感を出すのが抜群にうまい。ギャク漫画のような恋愛話の後に、青春の恋愛のほろ苦さを描写するシーンがあるが、これは土屋さんの芝居が脚本以上のものをしっかり伝え、その背景や心情を観客にわからせてしまうから成り立っている。ここは深田さんの芝居と演出もよく、二人の立ち位置やセリフのやり取りの演出が、より土屋さんの芝居を立たせる工夫になっている。

このほか樹木希林さん、篠原涼子さん、荒川良々さんなど脇役陣のコメディ芝居の面白さも印象的だが、何といっても本作の魅力は脚本が設定し描写した二人の人物像とラストの二人の姿にある。

桃子とイチゴは、どちらもその境遇に葛藤を抱えている。ロココに憧れ、ファンシーなロリータファッションに身を包み、祖母のことを「おばあさま」と呼ぶ桃子。しかし、その様子とは裏腹に、実はバリバリのヤンキー家庭で育ち、今もなお田舎でヤクザもんの父と暮らす境遇にある。またイチゴは逆に、恵まれた家庭に育ち、ピアノや習い事をするような日常を送っていたが、ヤンキーに憧れ、高校デビューで暴走族の仲間入りを果たして現在に至る。桃子とイチゴは共に、その境遇と自らの生きたい方向性に葛藤・対立を抱えている。ここが本作で大きな意味をもっている。

まず自分の現状となりたい自分へのギャップを描くことで、観客の共感が得やすくなっている。一般的に人物設定は直線的につくられる。リアリズムに徹すれば徹するほどそうなる。例えば、不良であれば、その家は低所得だったり、両親が離婚していたりといったよりリアルな境遇を考える。それはそれで、人間の生々しさをシリアスに描き、ドラマに匂いを出すことができるのだが、ともすれば、その境遇がわからないと観る人が共感しにくいというリスクもある。本作は、家は恵まれてないがお嬢さんになりたい桃子と、家は恵まれてるがヤンキーの型破りな日常を送ろうとするイチゴという相反する葛藤を抱える人物を登場させることで、少なくとも二人のどちらかに観客は共感してしまうのである。また、ぶっとんだ設定ながらもディテールがしっかりしているのがよく、特に他人に興味のない桃子は、一歩間違えれば好意をもちにくい人物なのだが、どうしてそうなったのか、その背景にある壮絶な生い立ちを面白おかしく見せながらも、しっかり伝えているからこそ、共感できる人物に仕上がっている。

また、ロリータとヤンキーという一見相反する二人が仲良くなる前提としても、二人各々が抱える葛藤がある。本来ならロリータとヤンキーは正反対だからわかりあえない。しかし、桃子とイチゴがわかりあえるのは、お互いの根源に相手の今があるからだ。そのことが、互いが仲良くなる前提になっている。それを尼崎での桃子の暮らしやイチゴの少女時代の映像で、面白おかしくもわからせ、二人が仲良くなる伏線にしている。

さて、こうした人物設定の魅力は本作を支える屋台骨だが、今回改めて観て感じたことは、ラストの結末が他にはないよさがあるということである。
桃子とイチゴは互いの友情や愛(人間愛)を深めつつも、あくまでも己の道を生き、アイデンティティーが確立している。決して世間には迎合しないが、それも世捨て人や渡世人のようではなく、より自分をしっかりと持って生きる二人に魅力がある。ここには、従来の作品にありそうでなかった魅力がある。

終盤レディースたちに、イチゴは世間の柵から離れて生きるために暴走族を始めたのではないかと、言い放つシーンがある。自分の所属する不良集団に疑問をもち、こうしたセリフを言い放つという描写自体はよくありがちなシーンなのだが、本作のイチゴのように、本当にそれを実践してラストに生きる人物は珍しい。
というのも、普通の作品であれば、不良集団に疑問をもった人物は、更正して家族と和解したり、まともな職業を目指したり、結局世間に還っていくからである。これはリアリズムの視点で不良を描けば実は自然な描写で、近年のマイルドヤンキーに象徴されるように、そもそも不良は地元のコミュニティや家族、友人との絆といった世間を重んじる存在だからである。
しかし、イチゴは一人走り続けることを選ぶ。だがそれは、西部劇のガンマンのように孤独ではなく、自らのアイデンティティーを確立し、生きる道を選び、厭世的ではなく、桃子との友情のように人間への愛もある。そして、桃子もまた世間とは必ずしも迎合せず我が道を行く。このラストのアイデンティティーを完全に確立し、次に会うときは下妻でなくてもパーソナリティは変わっていないであろう確固とした二人の姿が非常に魅力的なのである。かつて社会学者の阿部謹也氏は、世間とは日本固有の概念で欧米にはないと指摘した。まさしく本作のラストの桃子とイチゴの姿には、世間を超越し、自由に、しかし人間愛をもって生きる普遍的な魅力がある。おそらく単純なリアリズムの視点だけに縛られて不良を発想し、人物設定しなかったからこそ、この魅力が出てきたのだろう。