映画漬廃人伊波興一

殺し屋1の映画漬廃人伊波興一のレビュー・感想・評価

殺し屋1(2001年製作の映画)
3.1
この(亜種)の熱病がハリウッドにまで感染して私たちを楽しませてくれた事実を忘れるわけにはいきません

三池崇史
「殺し屋1」

自分は長年映画を観続けてきた、と自覚していながら、それがいかなる経験としても蓄積されていなかった、とあからさまに思い知らされる作品に遭遇して狼狽える。

私たちが、とっくに生誕100年を超えた映画を今なお飽きずに観るのはそうした瞬間を常に招きたいからだと思ってます。

だが実際、映画が歴史や伝統の上に培われてきた以上、あらゆる映画はやはり映画に似るしかない。

そんな諦観や涅槃(ねはん)を打ち砕くものは、相互間の突然変異によって現れた形態的差異をはっきり際立たせる亜種めいたものでしかありません。

種そのものの分布範囲や移動能力次第で、時代的、地域的に大きさ、形、色彩などに違いが見られたとしても、至るところで悪童ぶりを発揮して暴れ回る亜種の(傍若無人)ぶりこそが映画の(現状)に揺さぶりをかけ、それまでの映画に似ることのない映画を撮りうる実践化に他ならないと思うからです。

例えば前世紀末、アッバス・キアロスタミのコケール・トリコジーに代表されるイラン映画も、『第五世代』に見られる変革の意思が際立った中国映画も、小津安二郎の魂が遠く離れたフィンランドやポルトガルに降りたったかのようなアキ・カウリスマキやマノエル・デ・オリヴェイラのシニカルな笑いも、侯孝賢や楊德昌というずば抜けた才能が主導した台湾映画の風格も、それらの挑発を前にする度に、私たちはそれまで観てきた映画の意味や公式的な史観さえ揺らぐような錯覚を覚えてきました。

それは日本映画だって例外ではありません。
とはいえ今更、阪本順治の「トカレフ」や北野武の「ソナチネ」に出会った時の驚きを繰り返すつもりはありません。
ましてや「CURE」の黒沢清や「Helpless」の青山真治、あるいは周防正行、塩田明彦、万田邦敏らのように立教大学でポストモダンの識者から講義を受けた映画人だけが日本映画の亜種になり得ると言いたいわけでもありません。

(小津)という名前が周囲で話題に上がっても(オズの魔法使い)に関する話と本気で思い込んでいた、というエピソードからでもあからさまなように、映画とは無縁のまま、大阪府八尾市にて藤山寛美の(松竹新喜劇)だけをサブカルチャーの軸としてやんちゃな高校時代を過ごしたという映画作家にも(亜種)が萌芽していた事実を申し上げたいわけです。

有名大学に行けるほど学力があるわけでもなく、地場産業に就職にしたり、職人見習いになるほどの覚悟が備わっていたわけでもない若者が小田急線新百合ヶ丘駅前にある映画専門学校を進路先に選んだ理由は単に(逃げ)だった、とご本人は後々、自著のエッセイで述べられています。
その若者の名前が三池崇史である事は今ではご周知の通り。

その三池崇史が21世紀元年に撮りあげた映画「殺し屋1」が傑作だ、と謳い上げたいわけではありません。

瞠目したいのは前世紀末の日本映画の市場で何故この作家だけが、「殺し屋1」の陰陽くっきり際立つふたりの主人公、泣き虫殺し屋イチ(大森南朋) と究極のSM嗜好者垣原(浅野忠信)、両者のパーソナリティそのままを体現(オーバーラップ)するかのような無軌道なアナーキーぶりを炸裂し得たのか、という事実です。

少なくとも90年代から21世紀の幕開けにかけて撮られた三池崇史作品には世紀末に生きる映画人の特権だというかのようにいともあっさり(伝統の概念)を放棄していた気がします。

事実「殺し屋1」に登場する物騒な(亜種)どもは生き物としての機能の限界などお構いなく、巨体フックで人体を吊るす、靴の踵にある仕込み刃で人間の四肢を軽々と切断する、ステロイド注射で小柄な骨格にしてはあまりに異質な筋肉を備えてしまう、人体を素手で引きちぎる、ピアッシング用のニードルで相手の顔をとことん串刺しにする。
そんなとき自分は間違っても歴史や伝統の継承者ではない、と呟きながら三池崇史は始末に負えぬ悪童ぶりに徹しているかに見えてきます。

その確かな非正統性の意識と、始末に負えない傍若無人ぶりが、気がつけば一年の殆どを撮影現場とスタジオで過ごしていた、という多忙極まりない逸話を招くほどの大量生産工程に繋がったのか。

強引過ぎてわたくし自身もいささか想像し難いのですが、三池崇史は才能や弛まぬ努力を結集させて映画を撮っていたわけでなく、かつて(添え物映画)を中心に撮っていた中川信夫や鈴木清順、あるいはピンク全盛期の若松孝二がそうであったように、亜種系にしか宿らぬ一種の(中毒性)めいたものが同時代の他の作家よりも著しく強い時期があったのではないか、と思っています。

「殺し屋1」よりは間違いなく傑作と断言したい「岸和田少年愚連隊 血煙り純情篇」や 「DEAD OR ALIVE 2 逃亡者」「漂流街」「天国から来た男たち」などが息つく間もなく連発できたのは「血煙り純情篇」のキャッチコピーそのまま(走ってるのではなく止まれない)という中毒性に因るもの。

「殺し屋1」のクライマックス、イチから追われる垣原が焦りながらも(マジで絶望って味わいてぇよ)と喜悦の表情に変わっていくさまに触れるうちに、いつのまにか観ているこちらまで歪つなマゾヒズムを愉しむだけでなく、三池崇史自身のエッセイタイトルそのままの(監督中毒)という熱病が海外のクエンティン・タランティーノにまで感染し、國村準が、菅田俊が、風祭ゆきが、大森南朋の父上麿赤児が、そして「殺し屋1」の脚本家佐藤佐吉までもが「キル・ビル」という名のスクリーンで炸裂して私たちを大いに楽しませてくれた事実だけは忘れたくありません😊。