デニロ

エル・スールのデニロのレビュー・感想・評価

エル・スール(1982年製作の映画)
4.0
1983年製作。原作アデライダ・ガルシア・モラレス。脚色監督ビクトル・エリセ。

南部、という意味だそうだ。主人公/エストレリャが父親の故郷である南部に旅立つシーンで映画は終わる。だから南部での物語は描かれていない。何で?監督のインタヴューを読んでいたら、撮影中に資金が足りないのが分かったのでこんな形に纏めてしまった、というようなことだった。

冒頭、寝室に朝の光が徐々に差し込んでくるシーンを観ながら、絵画だなあと、そんな風に思う。前作の『ミツバチのささやき』も一場面ごとに記憶が甦るんですが、エリセ監督の静かな政治的主張は17、18世紀あたりの絵画的表現で支えられているようで、それはそれで興味深い。

寝室で目覚めたエストレリャは母の叫ぶ声を聞く。父/アグスティンがまたいなくなった様だ。詳しい説明はないけれど幾度か父はそんな不在を繰り返している。幼い8歳のエストレリャの回想でその頃の父が物語られ始める。アグスティンは医師であり、近くの病院に勤務していて、家の前を伸びている道路を国境と呼び、バイクに乗ってその道を勤務先に走る。エストレリャは父の帰りを待ち構えて、バイクに乗せてもらい国境を疾走するのが好きだ。また、アグスティンは霊能力があるのか、その土地の農民から頼まれて水源を見付ける手伝いをしている。謎の振り子を手にして水源を捜し歩いていると、振り子から何かが伝わるのか、ここだ、と言うように地面を指し示す。その父の姿を見てエストレリャは得意だ。

ある日エストレリャが街を見歩いていると父のバイクが映画館の前にある。どうしてここに、と思いながら劇場に貼られている上映作品のポスターを眺めていると、イレ―ネ・リオスという見覚えのある名前を見付ける。この名前を、父の書斎の机の上に置かれた封筒に書き連ねられていたのを見たことがある。しばらくすると父が映画館から出てきてバイクの前に立つけど、思い直して街角のカフェに入っていくのを見止める。

アグスティンは、スクリーンを見つめながら思う。おそらくはかつて彼女と一緒にいた頃の事だろうか。イレ―ネ・リオス。映画館を出て、バイクの前まで歩くが、彼女の顔を見たら、あの顔を見たらたまらなくなり、そのまま真っすぐに家に帰る気にはなりません。思い直して近くのカフェに入る。今の今までこころの中で書いては消し書いては捨てられなかった思いが黒いインクに青い便箋に溢れかえる。♬遠くで暮らす事が/二人に良くないのはわかっていました/くもりガラスの外は雨/私の気持ちは書けません♬(心もよう/詞:井上陽水)

思いもかけぬ彼女からの返事。♬卒業しても 白い喫茶店/今までどおりに 会えますねと/君の話はなんだったのと/きかれるまでは 言う気でした/記念にください ボタンをひとつ/青い空に 捨てます♬(春なのに/詞:中島みゆき)

ビクトル・エリセは『ミツバチのささやき』では謎の手紙を出し続けていた。出しても届かぬ手紙。内戦で引き裂かれた恋人たち。報われなかった愛の結晶。

その日から家の中が不穏になる。おさなごころにエストレリャは父のこころのざわめきを知る。もう耐えられない。エストレリャの小さな反抗。誰にも見つからないようにじっと隠れる。探しに来たって見つからない。時の過ぎゆくままにこころは晴れ晴れとしてくる。でも、屋根裏部屋の父は娘がどこに隠れているのかを知っている。そういう能力があるのを知っている。屋根裏部屋から杖で床をトントン叩いて、お前はそこにいるんだろう、お前には父の気持ちはまだわかるまい、そんな風に語りかけられているようだ。悲しくて涙がこぼれ落ちる。

だから15歳のわたしには分かるのだ。父はもう帰ってこないと。枕元に置かれた父の振り子を握りしめる。

父/アグスティンの青春を探しにエストレリャが南部に行くところで映画は終わる。え、と思ったけれど、もはやわたしの中ではアグスティンの青春は追想されている。これ以上のアグスティンの物語は不要だ。ここから先はエストレリャの物語。それはキラキラと輝く未来しかない若者たちのものだ。

映画館Stranger  1985年に日本中が虜になった巨匠ビクトル・エリセ監督による傑作2作品を、いま、スクリーンで――。 にて
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