ニューランド

花吹く風のニューランドのレビュー・感想・評価

花吹く風(1953年製作の映画)
3.5
 特にこの作家のファンという訳でもないので(誰に対してもそう言ってるが)、人気に比例して頻繁に行われる特集上映でも、2.3本を越えて観たことはない気がする。近年は全く観ていない。作品に一貫した物があるわけでもないので、もう一つ執着·愛着がわかない。そういった田舎者のセンスのなさを軽くいなす高級を隠す真の感性品性·本音や出自を現さない事での表面の軽さと拭えない絶対の存在証明、をこそ味わうべきなのだろうが、基本·個人的に少しなりとも分かるは、明大の映研出身が思い起こされる、映画の繊細な真ん中を·知らない間に天性か踏まえ続け、日本の風俗の完全なる空気を掴み出す、という点だろうか。私の様な田舎者には、ハイセンスや含羞はあまりどうでもいい事だ。だから、まず造りのマネの出来ない、照れ隠しか戯作面が目立ち、これ見よがしには決して前面に出ない、実は例のない、映画の外さなさ·深い足おくりの確かさだ。監督デビューの頃からのその現れは、『還って~』『~市民諸君』のまるでジャンルや重さの違うのを渡り歩いても変わらなくあり続けてる。本作もそうだ。まず、映画そのものだ。俯瞰め長めや、近い位置からの寄る·退き方のカメラ移動でも、目立たないカーブが機械より映画そのものの力とニュアンスを表し·多すぎではないが少なくもなく、作品の基調を作る。単なるどんでんで人が動き·出て来るのではなく、90°のポジション取りに併せてやって来る。切返しや全図も微妙に高さを持つ。アップの表情抜きや仰向け倒されるリアクションショット入りでも、対峙平面的トゥショットでも、ポイントは示さずすぐ全体に溶けてく。合成的·セット効果的や夜や闇の包みや、絶え間ない雨の囲み突き方も、しっかりとリアリティを持ち所謂効果以上の存在。関係や恣意悪意が、交錯しひっくり返る人間関係も、際立たされる部分なく、映画的な全体に戻り収まってく。 
 大手証券会社のそれなりに見える専務と、活溌なキャリア·ウーマンの若い女が、偶然知りあっての、仕事や男女の愛憎がズルズルか、スルスルか出てくる話。田舎の母のもとで育った女は知らずも、専務は、今ひっそり病気療養の父の社を抜け、婚約中のその娘=若い女の姉とも別れ、大学同窓が社長の今の社に入り実権握り、業界モラルも無視で、政界黒幕を引き入れ、関西系列も吸収、巨大化を計ってる人間。様々女性も惹きつけ惑わして、再び若い女の家族に牙も。黒幕が女の姉の芸事師範の弟子、女の堅物新入社員が、証券会社社長の甥、で絡まり·逆襲·新しい出逢いも始まる。若い女のファンの、同僚やカフェ店員も協力。
 敢えて後の売物軽佻浮薄の前面露わを、内に押し込めた実は本質的な、物の見方変わらないを示した銘品。個人的に先に言ったように、20世紀終盤、自費で埋もれた作品のプリント起こしをやってたグループの実に丹念な活動とはかけ離れた、この作家世界と無縁な人間だが、紛れもない傑作と思うを挙げても、『~太陽伝』『昨日と~』『雁の寺』『~赤信号』『貸間~』『女は二度~』『花影』『~二十四帖』『~市民諸君』『しとやか~』で(どの期~松竹·日活·東京·大映~にも欠けず、計)10本、更にまだある、となると、特に関心を祓ってはこなかったが、稀なる大作家世界を通過して来てたのかも分からない。あまりに早い死、後10年でも生きてたら、『寛政太陽伝』『忍ぶ川』『(水上の)波』らが追加完成してたらと思うと身震いもする。昔読んだ本で、藤本義一が20代半ばで出逢った時、「5、6歳僕の方が上か」と言われて何の違和感もなかったという、顔つきに留まらぬ·丸まっていかないシャープさが凄い。
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