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グレンとグレンダのTnTのレビュー・感想・評価

グレンとグレンダ(1953年製作の映画)
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「もし創造者が空を飛ぶようにするなら、生まれつき羽を与えたであろう」
 しかし、人は飛行機を作ったではないか。人は生まれたままではない!そういうエド・ウッドの情熱が炸裂してて、最低監督と言うにはなかなか革新性のある映画である。そして上記の人の創造の豊かさを確信したエド・ウッドは、映画自体もぶち壊す。最高だ、これはどんな映画でもないのだ。

 ジャンルレスに繋がる様々な映画の形。怪奇映画かと思えばラブロマンスであることはまだありそうな展開ではある。しかし、かと思えば精神科医や刑事を交えた教養映画の体でもあり、またやたらとナレーションが喋るニュース映画的でもあり、またストリップというプロイテーション的側面(これは制作側が集客を心配して無理くり入れたシーンだった気がする)もあれば戦争の記録映像を交えたドキュメントも挿し込む。この読み取り不可な具合に最低映画の称号が与えられたと言えるだろう。だって、ターゲット層わからないんだもの!

 しかし、こんなにジャンル横断して複雑化しているのに、しっかり入れ子状になっている脚本は面白い。怪奇映画が一番の大枠で、教養ニュースがその内側、ドラマがさらにその内側、そしてそのドラマの人物の夢、つまり精神世界がさらに内側にあり、そこにストリップ映像が挟まる(ストリップとはそも男の願望的側面なので夢の中は適切な位置でありさえする)。大枠からマイノリティの精神世界へと到達するところに、よほど自身の癖への理解を求めていたのだろうと窺える(精神世界が怪奇の大枠と接続することで円環構造になり、ミステリアスさを増している。そして中心はエド・ウッドという個人によって辛うじて保たれている)。付け加えれば、女装癖のグレン自身を監督が演じ、それを打ち明ける彼女を当時の本当の彼女に演じてもらっているという、メタ要素まである。ちなみに戦争シーンのカットで語りが無く銃声のみが響くのは、ソニマージュ的側面からの”正しさ”を感じた。これは実際に戦場に赴いた経験からくる、戦場が筆舌に尽くしがたい光景であることを知ったからこその演出と言えるかもしれない。大衆へと開かれた教育的側面から一個人の性的嗜好へと収斂させ、その後戦争という再び大衆かつその愚かさの象徴と、個人の性的嗜好というハレーションを引き起こす、すごない?(昨日みた植岡喜晴作品が戦争のフッテージで締めくくられるの、実は今作の影響だったりと思ったり)。

 今作の影響力がまた今作の革新性を物語っている。今作を支持するジョン・ウォーターズはマイノリティを積極的に映画に映すようになり、ティム・バートンはその作り物でチープな世界に惚れ込み彼の伝記映画さえ作り、デヴィッド・リンチは怪奇描写にミステリー的要素を見出した。ちなみに、今作はヒッチコックの「サイコ」の真反対映画だと思う。どちらも怪奇チックな演出であるという共通点ではあるが、あちらは大衆が抱く性的倒錯への恐怖を利用したマジョリティのための映画であったのに対し、今作はどこまでもマイノリティ側に寄り添った映画であった。

 まずジェンダー問題をこうも切り込んで描くのは勇気がいるなと、しかも50年代に。そしてグレンにはグレン特有の問題があり、それを一般化しなかったラストも正しいなと。こうしたマイノリティの問題はひとまとめにマイノリティとできない複雑な個人特有の問題であり、ここまで一個人を映画という開けた作品に落とし込み、またなるべく誤解を生まないようにしたのはすごい。

「糸を引け!」
 デヴィッド・リンチへの影響力。まずビビるのは、今作で恐らく単なる繋ぎカットでしかないラジエーター単体のカットが、「イレイザーヘッド」で大きな意味を持って引用されていることだ。不自然な繋ぎであるという部分にリンチはミステリアスを受け取ったのか。またドラマパートの裏にベラ・ルゴシ演じる大いなる力があるというのは、「ツイン・ピークス」のドラマパートとその裏のレッド・ルームの扱いと同じではないか。また精神科医はジャック・ナンス似で、エド・ウッドはカイル・マクラクラン似だ、絶対今作に寄せたキャスティングだ。

 というかリンチ、タランティーノに引けを取らないクソシネフィルかもしれない。現在上映中のウルリケ・オッティンガーの「アル中女の肖像」の中で、小人とカーテンというモチーフが出てきたことの驚きよ。「ツイン・ピークス」の元ネタこんなところにあったんかいという。あの映画見て、そこからインスピレーション得るのかという、変な使い方をリンチはしている。
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