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白い花びらのkuuのレビュー・感想・評価

白い花びら(1998年製作の映画)
3.5
『白い花びら』
原題Juha
製作年1998年。上映時間78分。
芬蘭土(フィンランド)全編モノクロの無声映画。

芬蘭土の片田舎。
自分たちの作ったキャベツを町外れの市場に売りに行き、生計を立てている夫婦ユハとマルヤ。
キャベツは飛ぶように売れ、幸せな日々を送っていた。
そんなユハとマルヤのもとに光り輝くオープンカーに乗って、カサノバ風な男シュメイッカが現れ、マルヤを誘惑する。。。

二十世紀の終わりにモノクロの無声映画を作るのは、すでにさかしまな行為と云えるかな。
ましてやヨーロッパの辺境(失礼🙇‍♂️)芬蘭土(フィンランド)で映画を作りつづけるってなりゃ尚更。
己で作品を作り配給し上映する。
己がいなければ作品そのものが存在しない。
こないな立場であれば、作品作りその ものに意識的になるのは当然だといえるかな。
小生も同じ様に作品を生んでますから感じます。
アキカウリスマキは映画を作るために、 映画のシステムすべてを発明しなければならなかった苦肉の策も伺える。
カウリスマキの新作は “二十世紀最後のサイレント映画と称されていると知人が絶賛してました。
かつての無声映画のスタイルを模して、会話はなく、セリフはすべてインタータイトル (中間字幕。映像の様々な場面の途中に、編集によって挿入される、印字された文章を撮影したコマ) で処理される。
公開されるのは音楽伴奏付きのサウンド版ですが、ベルリン映画祭のプレミアじゃバンドの生演奏というかつての無声映画スタイルで上映されたそうです。
半世紀以上前に滅びた映画形式を、技術的制約がない現代にわざわざ甦らせる (パーでの演奏シーンからわかるように実際には映画は同録で撮られている)。間違いなくさかしまと云っても過言じゃない。
ある種の映画作家、極端なフォルマリスト(自律性を強調し、言語表現の方法と構造の面からの作品解明する)は形式的完成を目指して映画を作る。
カウリスマキの倒錯は無声映画を作ることそのものが目標となっているとこ ろにある。
映画の中で、俳優たちはわざとサイレント映画的な大げさな演技をつけてみせたり、ただ音のない映画を作ろうとしているのではなく、意識して紛い物無声映画をつくろうとしてる。
映画てのは本来アミューズメントであり、興行であるし、その意味ではハリウッド産の100均ダイソー的大量生産映画の方が、個人作家の芸術作品よりもはるかに映画の本質に近いと云える。
スタジオ・システムが崩壊した二十世紀末に無声モノクロ映画を作ろうとするのは、その意味ですでにさかしま行為です。
そしてもともと映画産業のないところで映画を作るカウリスマキほど、それを強く意識している映画作家もいない。
彼はゼロから映画を創造した。
過去のない世界でなら、どんな手法であろうと歴史的文脈から切りはなして自由勝手に使うことができる。
彼は手法としてサイレント映画を使ってみせた。
今作品は簡素なメロドラマでサイレント映画でもなければ成立し得ない。
そう監督は考えた。
現代ではありえない単純すぎるメロドラマに現実味を持たせるため、サイレント映画の形式を借用した。
嬉しさを表すために抱きあって踊るちゅう記号のような演技を視聴者が、受け入れ認められるなら、誘惑されるヒロインのナイーヴさもまた信じられる。
二十世紀の終わりにサイレント映画を作る倒錯はその手法に見合ったテーマを得て正当化されるんやろな
kuu

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