まぬままおま

白い花びらのまぬままおまのレビュー・感想・評価

白い花びら(1998年製作の映画)
4.5
今年、はじめて劇場でみた作品になりました。いい新年を迎えることができました~

そんな本作はアキ・カウリスマキ監督の20世紀最後の音楽付きサイレント映画。

田舎でキャベツ農家をして仲睦まじく暮らしていた夫婦のユハとマルヤの元へ、車の故障で偶然、シェメイッカが訪れる。彼は都会暮らしで裕福であり、そんな彼はマルヤをみかねて二人の仲を引き裂こうとする。

マルヤとシェメイッカの人生は決して交わるはずがなかったのに、目線のカットで目が合ってしまう。その瞬間、二人の運命は決定づけられてしまうんですよね。しかもその時、シェメイッカは外にいて、マルヤは室内におり劇の空間では決して目線は合わない。これこそ映画!だと思い、傑作であることが分かる。

以下、ネタバレ含みます。

本作は、『マッチ工場の少女』の「もしもの話」ともみれる。「もしも彼女が子どもを産む選択をしたら?」と。マルヤに夫との愛の問題ー彼はすぐ寝る。一緒に寝ないーや生活の不満はあれど、シェメイッカとの家出は一時的な逃避のはずである。それもマルヤを演じるカティ・オウティネンの佇まいで見て取れるように、彼女は田舎暮らしで一生を終えるのは「もったいない」けれど、都会でパーティーに明け暮れてイケイケな女性ではない。だから彼女とシュメイッカが結ばれる運命は幸せにはなれない。しかし子どもを身籠もってしまい、ユハの元へ帰ることもできなくなる。あまりにも悲惨だ。

結局、この悲惨さを覆す希望は語られず、『マッチ工場の少女』と同様、夫がシェメイッカを殺し、夫も共倒れになる「犯罪」によって破滅に向かう。マルヤと子どもは生き残った。けれどそこに希望があるのかは分からない。

この希望のなさは「敗者三部作」以降の作家性の転向ーアイロニーから希望へーを知っていたから驚きである。しかし『過去のない男』のパンフレットに以下の記述があった。

「私の前作はモノクロのサイレント映画だった。私がいかに真剣に映画を作っているかがお分かりいただけたと思う。しかしながら、この路線を押し進めるとあとは映像を取り払うしかなくなってしまう。そんなことをしたら残るのは影だけだ。そこで、常に妥協する心構えが出来ている私は方向転換することを決めた」(p.3)

本作はカウリスマキにとってアイロニーを真剣に突き進んだ果ての作品なのかもしれない。そのように考えればカウリスマキの作家性を知るためにとても重大な作品であることは間違いない。やっぱりみてよかったです。

追記
真剣さは随所にみれる。本当に映像イメージで明瞭に語ることが意識されている。登場人物の身振り手振りはおおげさだし、故障の描写はカウリスマキ特有の音声イメージではなく煙が出ているボンネットをちゃんとみせたりと映像イメージで語っている。回想シーンが挿入されることもカウリスマキ作品にしては珍しいと思いつつ、マルヤの夫の元へ帰りたい感情がよく分かる。

オーバーアクトであったり、結末近くの夫がシェメイッカを殺す場面では、斧を持っているのに腕力でなぎ倒したりとコメディー的で笑ってしまう。しかしこのコメディーさが物語のシニカルさとアイロニーを際立たせているんですよね…私がアイロニーを真剣に突き進んだ果てと思う理由である。

さらに言えば、夫が腕力でなぎ倒すことは、前のシーンで夫が酒場で暴れることですでにアクションとして準備されていて、そのなぎ倒すシーンの次は夫が赤ん坊を発見し窓から放ろうとするシーンである。結局、彼は赤ん坊を放らないから「優しさ」が分かるのだが、結末を知るとあまりにも悲しい。

蛇足
本作もワンちゃんが出演しますが、夫が乗るバスを全力でおっかけるから笑ってしまった。けれどそれはワンちゃんがバイクから降ろされ、近所の人に預けられることで夫の復讐のパートナーになれなかったように、マルヤも後にパートナーになれないことを暗示しているようで悲しい。

マルヤとユハが食べる白い塊何なの?モノクロだから全然わかんないけど最高。調理シーンは二人の関係性がよく分かるから面白い。

サイレント映画ではあるが、環境音や音楽は挿入されている。環境音の挿入箇所の判断をどうしているのかは分からないけど、なんか感心した。そしてこれはかつてのサイレント映画を踏襲しているのかな…?

あと河川のピクニックシーンは、『ドリーの冒険』とルノワールの『ピクニック』のオマージュ。古典への愛が伝わる。

カウリスマキ作品の常連俳優が軒並み出演していてそれも嬉しかった。