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八月の濡れた砂のnoteのネタバレレビュー・内容・結末

八月の濡れた砂(1971年製作の映画)
3.5

このレビューはネタバレを含みます

夏の朝の海辺。高校生の清は不良学生たちに暴行された少女を目撃する。清は彼女にやさしくするが、彼女は清が家に服を取りに戻っている間にどこかへ消えてしまう。数日後、その時の少女・早苗が清のもとを訪ねてきた。やがて清と早苗、それに清の親友で高校を退学した健一郎の3人はつるんで遊ぶようになるのだが......。

湘南の海を舞台に、高校中退した若者が友人とつるんで衝動的な夏を過ごす、青春映画の佳作。
真面目なんてクソくらえ!と反発する思春期の若者のエネルギーが叩きつけられた作品だ。
ストーリーも脈絡のない展開が目立ち、意図的に若さゆえの無軌道さ・不条理さを演出している。

だが「青春グラフィティ」などと甘っちょろい肩書きは似合わない。
主人公は庶民の清なのだが、その悪友の健一郎の行動が実に酷い。

校長を殴って放校処分になった健一郎は、清に童貞喪失をそそのかし、同級生だった少女の股間をまさぐり、酒をがぶ飲みし、唐突に通りすがりの女性を犯し、挙句の果ては、金持ちの義理の父親をライフルで恐喝してヨットを奪い、洋上で顔見知りの女性を強姦する…。
そんな、とんでもない悪ガキの夏の日を描いているのだ。

健一郎は、母親が再婚したのが気に食わない。
義理の父親になった男は、実の父親の知り合いであり、充分な財力もある。
義父勝てるモノを持たない健一郎は、義父の高慢さに対し、自分は子どもでもなければ、無力ではないのだ、と反抗と衝動的行動を繰り返す。
一方の清は、悪友・健一郎の自由で欲望のまま行動に憧れているが、社会からはみ出す勇気もなく、ほとんどの場合は傍観者だ。
主体的に行動するのは、早苗への愛を語る時くらいなのだが、それが愛なのか性欲なのか自分でも良く分かってはいない。
抱きたいがレイプされた早苗の過去を思うと、なかなか踏み切れない。

学校という社会からハミ出した健一郎の暴走と、真面目に生きるのも格好悪い、でも何をしたらいいか分からない清の虚無的な夏の日々。

この映画が未だ愛され続けているのは、10代の時に誰もが抱く反逆的願望を叶えていることもさることながら、夏の終わりという感傷的な季節が、いつかは過ぎ去る青春の時期と重なり、ドラマチックに彩って見せたのが大きい。

バイクやハコスカ。オープンカーやヨットという豪華な遊びと対象的な退廃と物悲しさ。
ボンボンの快活さが目立つ「太陽族」作品とは違い、どこかフランスのヌーベルバーグ作品を思わせる趣きがある。

こぼしたペンキで真っ赤に塗られたヨット、ライフルをヨット内部から発射する早苗、茫然と無気力に海を見つめる健一郎と清、というラストに石川セリの唄が被さる。
ズーム・アウトし洋上を無意味に漂うヨットと太陽の反射光をとらえたショットは素晴らしい。
藤田敏八監督なりの「気狂いピエロ」のゴダールの解釈と表現である。

高度成長期が終わり、豊かになった70年代の日本。
学生運動も鎮火し、所詮将来は社会の歯車だと、将来やりたいことなど見つからぬ「シラケ世代」を象徴する青春映画として忘れがたい存在。

やり場のないエネルギーを持て余し、セックスと暴力に明け暮れる無軌道な若者たち。
当時の「芋洗いの海」が象徴しているが、日本にもこんなギラギラした時代が確かにあった。
バーチャルな世界に逃げ込む現代の若者の目には本作どう映るのだろう?
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