津軽系こけし

俺たちに明日はないの津軽系こけしのレビュー・感想・評価

俺たちに明日はない(1967年製作の映画)
4.1
そして、アメリカ映画の明日になった


【映画には暴力が必要だ】

映画草創期では長い間、映画の暴力性や反倫理性に懐疑的な声が上がっていた。アメリカ映画の暴力の歴史は、DWグリフィスの「國民の創生」による黒人虐殺運動に始まり、大衆への驚異的な影響力を危険視せざるをえなかった。その世相の危惧は検閲という形で作品たちを束縛し、暴力やSEXというものは極力銀幕から排斥されていった。
しかし、検閲の緩和と自由を求める60年代当時の風潮が、この「俺たちに明日はない」という革命児を生み出したのである。今作は、性描写や暴力描写を当時では考えられないほど鮮烈に露出させ、アメリカ映画の表現幅を1段階開放したのだ。そしてこの波紋はアメリカのあらゆる作家たちの感性を刺激し、のちにアメリカンニューシネマという一大ムーブメントとして語られるに至った。

【だが、彼らは弱い】

さて、そんな一大傑作たる「俺たちに明日はない」を満を辞して視聴に至った時分。アメリカの暴力や自由を象徴した作品という話は前々から把握していたので、きっとクライグ&ボニーの西部劇まがいの自由で超かっこいい無双が見れるものだと期待していた。
しかしながら、彼らの姿には自由を象徴するような強大さや、英雄じみたかっこよさはない。むしろそこにあったのは、現実との軋轢に苦しみ悩む普通の男女の姿であった。長年、この作品の凄みは2人の痛快な生き様に依存しているものかと思っていたが、初めて視聴したところ違う印象を抱いた。

むしろ彼らは弱く、現実に抗えきれない惨めな自分達を認識している…しかしそれでもその生き方を謳歌しているのだ。多くのアメリカ聴衆がこの映画に自由の姿を見出したのは、2人が英雄だからではなく、自分らと同じ普通の人間だったからなのではないだろうか…と思った。

【まとめ】

歴史的一作をようやく視聴できて心底満足である。今作が暴力を開放してくれたのは素晴らしい功績だが、この映画に続く「ナチュラルボーンキラーズ」のような二番煎じたちが、現実世界に殺戮をもたらしているのも事実である。近代社会では、女性の権利がうんぬん、黒人差別がうんぬんなど言われ、多様性という名の束縛が内在する時勢ではあるが、果たして何が正しいのだろうか。
改めて考えてみようかな…なんて
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