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A.I.の教授のレビュー・感想・評価

A.I.(2001年製作の映画)
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「ピノキオ」を下敷きにして、手塚治虫の「鉄腕アトム」のようでもあり、エッセンスは藤子F不二雄のようでもあり。
スタンリー・キューブリックが撮りたがっていた気持ちもわかるような気もするし、スティーブン・スピルバーグが撮ったということも、必然としてわかるような感じはある。

冒頭で述べられる「人を愛するロボット(メカ)」の創造への願望と欲求。
それは願望と欲求であり、それ自体が実に人間的で、理想の美徳と同時に下卑た野望も孕んでいてエピソードとしては秀逸。
最終的には研究や開発への妄執には「産業」への目配せは必須であるという生々しさ。
大きな「資本」との結託が必要であるし、結局は妊娠し、子供を持つことも許可制であるような、人間的営みもまた不自由なディストピア世界として描かれる。
そもそもラストでは、もはや人類は、歴史の中の「記憶」として「記録」される前に絶滅してしまう運命であることも含めて、そもそもが悲しい存在として本作には存在している。

映画序盤は、愛する息子が昏睡状態にあるモニカ(フランセス・オコナー)とヘンリー(サム・ロバーズ)の夫婦、特に強い喪失を抱えるモニカの悲しみの代替品としてあてがわれるデイヴィッド(ハーレイ・ジョエル・オスメント)の受難。
「生み出された存在」であったとしても、一方では「プログラム」によって「愛の呪縛」に囚われ無用な苦悩と孤独を背負わされてしまう。
中盤以降のジゴロ・ジョー(ジュード・ロウ)たちもそうで、人間の欲望と慰みの玩具的に生み出され、消費され迫害される描写はなかなかに凄惨。

と、ここまではその壮絶さも含めて「愛」という概念とテクノロジーへの欲望や、差別心など、そもそもの人間の中にある「エゴ」の問題を常に突きつけてくる作劇は、あまり脚本を書かない(書けない)スピルバーグは、執拗にそのテーマを押し広げていく。
ただ、海中の「ブルー・フェアリー」を発見し祈り続けて「2000年経った」と言われてからの結末に関しては、ここまで観てきた物語の回収として、より深刻で、一つの諦念のようなものが感じられる。
愛の根源は何かしらの思い込みも含めて「プログラム」に過ぎないし、経験による「学習」も「プログラム」に過ぎない。
その前提が生む、孤独や苦しみも「ファンタジー」と「ご都合主義」な妄想でしか救済されないというブラックな結末には、厳しい現状認識も感じつつ、だったら映画でそれを伝えなくてもいいと思うほど、身も蓋のなさに対してあまりに素っ気なく描き過ぎていると感じて乗れなかった。
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