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ここに幸ありのNSのネタバレレビュー・内容・結末

ここに幸あり(2006年製作の映画)
4.3

このレビューはネタバレを含みます

窓枠が意識される。その向こうにはピアノを奏でる女性がいたり、ゴミを放り捨てる細っちょがいたり、いさかいを始める男達がいたりする。向こうには大抵誰かがいる。これはこの監督の他の映画にも言えることだが、窓を意識して構図の中に据えているのは確かなことと思える。絵画の額縁の様に窓枠がイメージを切り取る機能的な構造物として活用されている。(などと書き留めたら『月の寵児たち』で絵画を額縁から切り取るマチュー・アルマリックが想起される。)そしてその中でも最も印象的なのは、監督自身が演じる劇中の老人が壁に描いていた落書きを、作業員が白く塗りつぶしていく様子を窓越しに捉えたショットで、窓のこちら側の壁の清涼な水色の彩りも相まって、何やらまずは視覚的に端的に際立つ場面として意識される。それは窓越しのショットとして捉えられることで、窓枠がそのまま映画のフレームの様に暗黙に機能してしまう訳で、その中で監督自身の手による「落書き」があっさり白く塗り消されていくさまは、やはりそのまま、その映画自体が描き出したものが束の間の「落書き」の様な戯れであり、しかしそれ故に自由の表れでもあるといった様な感慨をもたらす。

いわゆる“ノンシャラン”。しかしその映画の中でたとえば窓枠の様な視覚的な構造物がより意識されるのは、映画の視点、視角をどこに据えるかを常に自覚的に考えているからではないのか。監督のイメージボードにはシーンごとのキャメラの位置やカット割、人物達の動線などがロケ場所の見取り図中に細かく描き込んであるみたいだが、それはつまり、あくまで枠組の限定を加えた中ではじめて人物達をこだわりなく、それこそ“ノンシャラン”に動かせたということなのかも知れず。

イオセリアーニの映画に見られる、中距離的な被写体を緊縛する密度の緩さは、言わばそんな「入れ子構造的」な演出の意識あらばこその賜物かも知れず。限定された枠組内での人物達の動向を追いこそすれ、ことさら寄り添うことも突き放すこともせず、あくまでその中間に留まる。だからこそこの映画のラストシーンや、そこからの一連のラストショットのイメージにしても、どこか彼岸的で、現世的には束の間の刹那的な表出としてしかあり得ない“何か”でしかない様に見えてしまう。

イオセリアーニの映画のラストショットで個人的に印象に残像しているのは、『唯一、ゲオルギア』の不在の演奏者の椅子のショットだが、それはまずは「不在」のショットであり、同時に現在は不在という意味では「痕跡」のショットでもある。それは必ずしも「ここにあり」というショットではなかった。

原題は「秋の庭」の意味だそうだが、その微妙に黄昏れた感じが、確かにふさわしいのかも。
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