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黄色い大地のニューランドのレビュー・感想・評価

黄色い大地(1984年製作の映画)
4.0
☑️『黄色い大地』(4.0)及び『標識のない河の流れ』(3.0)▶️▶️

’80年代半ば、中国映画の第五世代が席巻し、それに近い位置の作品が東京映画祭の最初のコンペを制した。
30数年振りの『黄色い大地』。真の傑作。台詞はチグハグなアフレコで、おそらく流暢な職業俳優による吹替、印象を惹くLや労働捉えの間に、挟まれる顔辺の寄りのカット群は角度選択等かなり未熟なもの。しかし、視覚·筆致に流れる、全てに対峙し全てを呑み尽くさんとする、若さ·エネルギー·夢·姿勢の内面は、圧巻であり、完全である。溢れんばかりの世界を現出させながら、(大人しい表面と違い、内なるものは)それにおもねろうとはつゆ思わず、大きな個の内の自我·大望だけがあくまで先を決めずに、ひきづり·行き着かんとす。若さと理想は、暴走と足捌き·足跡の刻印を辞めない。表向き敗北·中断の形になるも。
鳴り物入りで紹介された新人だった。リアルタイムでこれに匹敵する騒がれ方をした新人監督の記憶は、10年に1人の天才の登場と騒がれた『激突!』スピルバーグくらいしか思いつかない。大抵、期待が大き過ぎて肩透かしが常だか、これも、厳しい党批判を勝手に想像していたので、それを強く出せない形式主義と見てしまった。しかし、陳凱歌に関しては3作目の『子供たち~』に心服して、処女作の再見を願った。また、当時のプリントは明るく強くインパクトはあったが、陰影のニュアンス·細部の出方は弱かった気がする。今回のDCPによる修復版は、もしかしたら当時より色合いはくすんでいるのかも知れないが、粒子感·エッジのヌケやキレ·暗部のニュアンスに於いては細やかさ·正確さがあり、題材にはこっちがマッチしてる気もして、そこから一気に心打たれた。人物のFIXロングの背景や作業の脇の情景重ねに、毅然と存在する揺るぎない自然らの聳え。樹木の極端に少ない土や石剥き出しの山、無人·無生物を深めくねる巨大峡谷、フォードのグランドキャニオンとキアロスタミの小山連なりをつたう細く長い途も、音楽を奏でるような河面の流れ·波紋、らが常に控え裏から覆っている。荒れた暖色·グレー系の自然·人々の主調の中、やや暗みに沈んだ衣装や木の真紅·深緑の点在が心に直に迫る、微かな青の着衣も。障子か油紙の広く薄い入口を陽光が抜け中の人々をモノ·シルエット化するか、夜の外からは赤い灯の力固まり出てる。寄りで捉えられる1人1人の孤立と尊厳。
1937年の国共合作の恩恵にあずかれず遅れ圧迫されてる北部に、その神秘な貴重な民謡の書き取り·それへ南の開放性の付与で奮い立たせも、という主目的で南·延安から八路軍の兵士が啓蒙·視察に来る。大して際立つ成果はなくも、代表的·平均的な男やもめ·子供2人の家で寝起きを共にして、前や後ろの理念は退き·滲み入るものの方を感じてく中、食うための結婚間近のローティーンの姉に、八路軍の女性でも同格兵士の希望·変化の望みを与える。彼女はそれに対して兵士の云った「隊にも決まりというものがある、伝え許しを貰って必ず早く戻る」を疑わずも、一旦延安に戻った兵士が再度向かってる筈を「待てず」、危険な河の向こう岸渡りを決行する。
初終の、『~ロレンス』のシャリフごとく彼方から小さいのから歩いてくる兵士(自然の山·峡谷パン、或いは人々営みとDISカットバック)、尾根の道をゆく花嫁を届ける細く長い列(輿や楽器·人まで同じカッティング)、の繰返しが挟むが、断念か無意味如く、ラストは近づく兵士の姿は自然の山Lからカットされる。
カッティングや映画組立が意味ない如く並べられ、かつ前進や成果なくも、繋がり·まなじりを決し、存在を·個の結び付きから個の中の内部に打ち込む、意志の生まれとその根の戻り確認が、映画も現実も·厳しさと念の世界捉えで超えて、ここに刻まれ証明されてく。映画としての纏まり·観客への従順、全てが消滅する。言葉や明確な姿勢のプロテストは低く感じられる強いものを得る。やっと、陳の意図に永くかかったが届くを感ず。それでも晴れがましい、恥じることは何もない。少女が新たな世界へ向かい歩き出す足元の白い土埃の上がり·その続き方。彼女の存在感は、この作品の視覚的ハイライト、出征兵士を送り出す、アクロバティックでかつ大地に根の生えたような粘っこい、男たちの群舞無数の揃い一面覆い·かつ拡大力の、全·各·揺れやスローの組立と並行のバランス·パースペクティブ、を越える。弟や兵や父のカット間には連続性があるのに、彼女の姿·表情は、前後ともドラマ要請とも無関係に、個々が存在し、分断され·都度見えない何かをたぐっている。それが何か、何にへでもなく、何にでも成り得るもの。ふと、侯孝賢の’80年代後半のお気に入りヒロイン、小説『白夜を旅する人々』の中心の少女、の寡黙な一途さを想い起こす。
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これに比べると、文革批判にのっとって、時制·地理·人との離れ·邂逅を巧みに心地よく、チャチな特撮から納得うなずき演技まで使い、詰め込み整理した『標識の~』は、表現が随分パターン的で、作品の屹立具合·厳しさはかなり見劣りする。何しろ、TIFFの最初のコンペで出品作中のワーストと云われたのが、当時の日中友好の政治絡みでグランプリを戴いた監督のその前作だ(監督は誰か知らず、空いた時間に行っただけだが、分かってれば止めてた)。冒頭の櫓からいかだ船上へズーム·パン·横移動·前後移動の腕は一流だが、その後はショットが妙に安定してしまう。こなれたところで、役者もロケもカメラも編集も、人の温もりだけは失わずをこころがけ、進めてる(DCP化は、元素材のせいか鮮やかではなくもまずまず、ワン·シーン、モヤって薄膜越しみたく劣化してたが)。
「資本主義の芽を摘む」と、党·武闘派の幹部とその周辺は、人も地域も蹂躙し、走資派とされた旧·面倒見の人らや貧しい層は、「運命」と思わせられるくらいに虐げられ再教育という収容所に詰められてゆく、彼らの楽しみや私物は全て潰されてゆく。大河の輸送イカダ船の、新旧3人の、(嘗ての)恋人や恩人らへの、想いと支配層への反逆の骨っぽさを描く。先に述べたが、デクパージュ·シナリオは緩く、平気で思念の内のひととあっさり再会、当たり前に骨を折る内容。
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