カラン

傷跡のカランのレビュー・感想・評価

傷跡(1976年製作の映画)
5.0
この映画に関して、キェシロフスキ自身は失敗と言っているのだから、キェシロフスキ以上にキェシロフスキを信じる必要があることになる。だから、あまり広く勧められる作品ではないのかもしれない。今回、2回目の視聴であるが、そう遠くないうちに3回目を観たいと私自身は思ったものだが。

キェシロフスキらしい持ってまわった口調である。一つのシーンで完結し固定的に意味を捉える早漏的なコミュニケーションからは遠く隔っているので映画の全編を繋ぎ合わせていくことが求められる。彼の卓越したフィルモグラフィの中でも私はとても好きな映画である。

ある映画の余白の広大さ、つまり、その映画の汲み尽くしがたさ、という性質に何の価値も感じない人には共感するのが難しい映画であろう。映画というのは無垢なるスクリーンにまるでそこに何かがあるかのように見せる虚構である。その嘘を楽しむには監督を信じることが必要だ。

そして〈そうでないもの〉を目にして〈そうであるに違いない〉と信じるには、《空白》が必要である。そこ、山間のその崖に墓があると信じるためには一本の木が必要である。映画にこじ開けられた《空》こそが、木は存在するが墓は不在なのだからだが、想念の余白こそが、「そうであるのか?」Muß es sein? から「そうでなければならない!」Es muß sein! への跳躍を可能にするのである。


『傷跡』の話をしよう。


80年代前半の戒厳令時にはキェシロフスキは『偶然』を上映禁止処分にされているわけで、政治的なものへの関心は強い。しかしそうであれば、このような社会においては映画は不明瞭さを高めることになりそうだ。

映画は、工場建設をめぐり紛糾する地元民と建設をごり押ししたい党との対立がエスカレートして、本作の主人公である監督官が望まない状況で仕事に就き、「辞めたい」と申し出るも許されず、しかし最悪のスケープゴートにされる格好でじりじりと首を絞めつけられる展開を描く。


冒頭の会議の後、手前の枯れた茂みと、奥には青緑色のうっそうとした林の木々との間の、森の道にカメラは焦点をあてており、その道を黒塗りの車が無数に通ると、背広を着た男たちが森の中で悪だくみを始めるかのようなショットは、『ゴットファーザー』(1972)(以下GFと略す)のクレメンザによる有名な殺害シーンを思い起こさせる。枯れ切って金色に映える麦畑の道に車を停めて、彼方には青銅色の自由の女神が浮かんでいる。GFでは昼日向の人気のない牧歌的な光景で、車中には殺し屋と犠牲者、そうした一味以外に知る者のいない殺人を自由の女神が見ているというトリアーデが、「こうもり傘とミシンの手術台の上での出逢い」(ロートレアモン)のように奇妙な静かさの中で不気味さを醸し出す、まったく見事なロングショットであった。そしてドン・コルレオーネとその一味の放つ銃弾の数だけ、苛烈な復讐が一味に帰ってくるに違いない未来を視聴者は分かっているし、その未来に戦慄するのだ。他方で、キェシロフスキもまったく負けていない。
 
GFにおける銃弾や幾多の残酷な殺害に対して、『傷跡』では樹木の切り倒しが行われる。めきめきと音を立てる樹木の音、掘り返されて土がめくれた大地は悲壮な未来を十分に予想させ非常に不気味である。そこに民衆の声が絡みついて、未来への戦慄が焦れていくことにもなる。しかし、林の中の悪党たちの会合には、その悲壮な未来の担い手は、つまり、新しい工場建設のためのこうした馬鹿げた所作の責任者である監督官は、不在であるのだ。こういうところがハリウッドの映画との大きな違いである。GFでは何らかの問題が誰にとっての問題であるのかは明らかなのである。『傷跡』は違う。恐るべき問題が示されるが、渦中の人物はまだ不在であり、事後的にその中に人間が放り込まれるのだ。したがって、鑑賞者は問題を問題であるのだと自覚できないまま恐ろしい傷跡を執拗に見させられることになり、映画はゆっくりと、非常にゆっくりと、悪党たちが大地に傷口をあけた代償の行く末を追いつめていくことになる。
 
この映画は不吉で得体のしれない焦燥がとり憑いている。そして上で少し述べたように群衆はあまりに接近してきて何が言いたのか分からないのだ。この群衆が焦燥を煽る。彼らは声を荒げているのは確かである。しかし、群がってくる民衆は何を求めているのか、工場新設で仕事口が見つかることを期待しているのか、工場建設にとにかく反対しているのか、こうしたことですら明白ではないのである。人々は執拗に取り囲み、声を荒げるが、どうすれば解決するのかはまったく不透明である。ただ取り囲み、しつこく、神経をなぶる。こうした群衆の描写として、これまで映画はこの『傷跡』ほどの表現の高みに達したことはあるのであろうか?
 
大地の傷跡は、映画の当初は生々しさに溢れていた。が、傷口は硬化するものであり、干からびた灰色の荒地にまで還元される頃には、渦中の人物が、つまり、監督官が、追い込まれていることがはっきりとしているだろう。監督官は歩くのはもう2kmなのか5kmなのか聞いても教えてもらえないし、そもそも誰も分からない距離を不毛の荒地で歩み続ける場面である。あの不毛で荒涼とした行脚は宗教的なイメージすらまとう。

こうした大地の傷跡の変遷の描写も非常に卓越しているが、その生の傷口から硬化した傷跡に大地が変質する過程で、くだんの渦中の人物も変質することになる。妻も娘もますます問題に態度を硬化させ、渦中の人は何も分からないのだ。宇宙飛行士の写真に見入るショットがあるが、あれは無知の象徴なのでないか。月にいて、宇宙服に身を包んでいる男は、何も教えてもらえず、何も知らず、残酷なまでにひとりぼっち。He knows as much as the man in the MOON!というわけだろう。こうした無知と自己喪失への変質のプロセスは、キェシロフスキの映画らしく精妙であり、光学表現の天才性を遺憾無く発揮しており、ショットとして非常に美しい。例えば、新しいアパートの部屋を与えられて、部屋の電気を付けたり消したりしながら、窓ガラスに自分が見えたり消えたり、人間の存在が明滅する弩級のショットだ。なお、キェシロフスキの音楽担当といえばプレイスネルであるが、この長編2作目にはまだ参加していない。その結果、共鳴管の短いマリンバを叩いて作ったようなノイズ系のサウンドトラックが採用されているのも、素晴らしい成果に繋がっている。

 
ところで、くだんの渦中の人、監督官、Stefan Bednarzという役名の存在は、誰の事なのだろうか?映画のラスト近くでは「健康に乾杯」などと言い出して、乾杯の相手、つまりこの監督官の真実を語るドキュメンタリーを作ろうという記者に怪訝な顔をされていたが。

キェシロフスキはある記者のルポを改変してこの映画の脚本を作った、それが失敗だったと言っている。『キェシロフスキの世界』の「傷跡」と題された章の、『傷跡』という映画への明示的なコメントはそれだけである。日本語訳で5ページほどの章であるが、映画の脚本の書き方を説明しているだけのように、表面的には、読める。この映画にはキェシロフスキがカメオ出演している。映画監督のクシシュトフ・キェシロフスキは1996年に亡くなった。心臓が弱かった。映画の力を信じていた人だと思う。それは何かを特別な仕方で伝えられるのだ。残念ながらあまりこの映画のことを人は理解しなかったのだろう。キェシロフスキもそれを肌で感じただろう。言い訳はやめておこうと思ったかもしれない。映画監督は自叙伝ではなく、映画で語るべきなのだから。恐らくどの作品に関してもキェシロフスキの自分語りには用心したほうがいい。キェシロフスキという人は物事を恐ろしいほどの正確さで理解しているので、私たちの理解力では見た目と中味が一致しないのだ。

また、心臓に加えて、彼は映画製作の大変さ、人を人でなくさせる苦労、に心身を蝕まれてもいた。監督業というのは自分の意志とは無関係に仕事を捻じ曲げられたりするものだろう。理由などないし、拷問のように無理解と曲解の仕打ちを受けるものなのだろう。『傷跡』のラストは監督官が実の娘の赤ん坊に立って歩くことを教える場面だ。画面の半分はクレジットが流れている。赤ん坊は赤ん坊だからあまり分かってくれない。権力者で邪魔者の粛清までしていたような男の話を最後に聞く/聞かないのは赤ん坊なのである。監督官が映画監督ならば、この赤ん坊は映画の鑑賞者としての私たちということになる。私たちはこの赤ん坊のように、きっと無邪気に無数の監督たちの胸を痛めてきたし、これからもそうだろう。。。だから、キェシロフスキについての語りをこれからも続けていこうと思う。
 
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