ムギ山

書を捨てよ町へ出ようのムギ山のレビュー・感想・評価

書を捨てよ町へ出よう(1971年製作の映画)
1.5
恥ずかしながら初見なんですが、若い頃に見なくて本当にヨカッタと思った。全く面白くないのに「これを良いと思わなければいけないのか……」という同調圧力に勝てそうもなかっただろうから(実際にそういう圧力があったかどうかは知らんけど)。

まあ昔の映画(ちょうど50年前だ)だし、初長篇だし、そもそも本業じゃないわけでことさら悪く言う必要もないのだけど、なんというか「映画という制度に反抗するのだ!」という思い入れだけが空回るばかりで、ちゃんとやるべきことをやってないので見ていて頭に来るのである。一番酷かったのはセツ子がサッカー部員に襲われて輪姦されるという場面で、セツ子が部室にあらわれると何の説明もなく男がいきなりシャツを脱いで抱きついて、その後すぐに他の部員が集まってきて狭いシャワー室内でおしあいへしあいし始めるという。しかしただ大勢がもみ合っているだけでおしくらまんじゅうでしかなく、セツ子さんの貞操の危機にはとても見えないのである。輪姦つーなら役割を分担して、相手を押さえつけるとか順番を待つとか、もっとこういろいろやるべきことがあるだろう! と申し上げたい。要するにここで作家はたんに「少女が襲われた体(てい)」で話を進めたいだけで、それを〈描写〉するつもりは毛頭ないわけである。

このようにこの作品は、全篇にわたって「作家が頭で考えたことの(描写ではなく)説明としての映像」が延々と続くだけで、しかも役者が一人としてそれを具体物として立ち上げようとはしておらず、ただ作家の道具にしかなっていないわけである(まあ天才でありカリスマの寺山に対して何か物を言うことなんかできなかっただろうから、役者の責任を言うのは酷だけど)。主人公が慕うサッカー部の部長が平泉成(当時は平泉征)だったというのはびっくりしたけど、特に印象には残らない。万引を繰り返す祖母の田中筆子だけがすごくフツーの芝居をしていてめっちゃ浮いている(とはいえ別に上手いわけでもない)。反対に父役の斎藤正治がえらい棒読みで、登場人物が全員この調子ならあるいは何らかの世界観が生まれた鴨、と思ったのだけどそんなことはなくただ下手くそなだけだった。その他役者陣は本当に魅力がない。というか抑圧されているのがあからさまで、見ていて可哀想になる。天井桟敷ってそういう劇団だったのかなあ(見たことないのだ)。

とはいえ何か所かオッと思うシーンはあって、たとえば女の子が路上でいきなり「みんなのために街角にサンドバッグを置いてあげることにした」と長台詞をしゃべるのを、離れたところからロングで撮った場面。どうも本物の刑事とおぼしき人があらわれて職質が始まりドキドキした。また、祖母と隣人が話をする(たしかウサギを殺すとかなんとかいう話)場面、会話がちょうど終わったところでカメラの前を都電が通り過ぎたのがよかった。あれは計算してそうなったのか、それとも偶然だったのかしら。あるいはセツ子が襲われる前、サッカーの練習をとらえていたカメラが乱暴に右にパンすると、小屋の陰から練習を見ているセツ子が現れるところ。

全体にテンポがひどく悪くて退屈なのは、監督(だか製作者)が貧乏性で「せっかく撮ったフィルムを編集してしまうのはもったいない」と思って全部使ったからじゃないかと思ってしまう。そのくらい編集ということに鈍感な印象。そのわりに妙な画面のインサートはやたらあるんだけどさ。

「書を捨てよ」といいながらこの作品が価値の最上位に置くのはあくまで文学であって、役者の肉体でもリアルな風景でもないのだった。しかしもしこの作品が後世に残るとすれば、「当時の新宿ってこういう場所だったんだなあ」という記録としてではないだろうか。

しかし悪口となると筆が進みますね。
ムギ山

ムギ山