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彼奴(きやつ)は顔役だ!のryosukeのレビュー・感想・評価

彼奴(きやつ)は顔役だ!(1939年製作の映画)
3.8
 第一次世界大戦の復員兵の苦労を示す序盤のエピソード。『ハイ・シエラ』もそうであったがウォルシュの主人公は異常に手が早く、エディはかつての職場の工員を二人まとめて殴り飛ばす。このあまりに性急なパンチは、船舶から酒を強奪するシーンでも繰り返され、その後もエディはこの野蛮な衝動の発露を繰り返しながら加速度的に悪党に仕上がっていく。
 風呂の浴槽で酒を造る(当時は本当にこんなのあったのかな)長閑な時代は一瞬で過ぎ去り、あっという間に狂騒の20年代に飲み込まれていく主人公。ちょっと前に『メメント』を見て、その映画の生理に反するような技巧に少々うんざりしたところだったので、ウォルシュの澱みない連続性に癒やされた。ジェームズ・キャグニーのひっきりなしに捲し立てる演技スタイルは、ウォルシュの終幕まで一切停滞を許さぬ映像・編集スタイルと呼応している。
 そして当然ハンフリー・ボガートの存在感も見事なものだ。後に『ハイ・シエラ』で主役を務める彼は、本作では純粋な暴力の結晶としての悪役に徹している。ジョージは、かつての上官に再会すると、「殺す」と昔述べたから殺すのだというほとんど人間離れした自己の言葉への忠実さと残忍さを示す。政府が没収した酒を強奪し、ゲートの金網をぶち破るトラック。
 ブラウンを一瞬でノックアウトする酒場の乱闘。エディの持ち込む暴力沙汰が、ジーンが大事にしているショーを中断してしまうという事実が、的確に彼らの世界の断絶を示し、更にロイドとの決別まで滑らかに繋がっていく。実に効率的な語りだ。目にも止まらぬ速度で死体と化しているダニーの描写も、観客の動体視力を試しているようだ。
 飲食店内での銃撃戦。彼らは無駄な言葉を一切発さず、ただ純粋に殺し合いだけを志向して行動する。その動物的な純粋さ。急激に命の炎が小さくなっていくブラウンを、開閉を繰り返すドアの向こう側に配置し、死体と化した彼が画面手前に倒れ込んでくる。その映像の手つきが、何やら映画における死の本質に迫っているように思う。
 狂騒の20年代が終わってもなお燃え残った純粋な暴力と悪徳が、ある日、平和の象徴となったロイド一家のもとに姿を現し、執念深く時計の針を逆に回そうとする。ここで再度、観客はジョージの「殺す」という言葉の重さを思い出すことになるのだが、落ちぶれたエディは、自らに残されている役割は時代の遺物同士で対消滅することだとはっきりと自覚している。宿命を直感したのであろうパナマも、エディを愛していながらも、抗えぬ滅びの世代の自覚により彼を死地に送り出す。
 ラストシーン、ウォルシュ流の宿敵との簡潔極まりない決着。豪快に手すりから落下する敵。死に際のエネルギーの噴出を描き出す魂の横移動撮影がエディの生命力を雄弁に語る。慣性のみで刻む最後の数歩は『勝手にしやがれ』等に共通するマインド。アンチヒーローが倒れ込む場所には雪が積もっているべきなのだ。
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