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クロッシング・ガードのnoteのネタバレレビュー・内容・結末

クロッシング・ガード(1995年製作の映画)
3.9

このレビューはネタバレを含みます

幼い娘を自動車事故で失ったフレディは、その犯人ジョンの過失を許せず、刑期が終わるのを指折り数えて待っていた。フレディの頭の中には報復の二文字しかなく、そんな彼に妻メアリーは愛想を尽かし、他の男の下に走っていた。加害者への復讐にとりつかれた彼は、6年間の刑期を終えて出所したばかりのジョンの元へと向かう。

愛する子が事故によって死を迎えた場合、家族はどのような思いを抱くのか?
また加害者の心境は?
その立場になって見なければ決して分からないかもしれないが、自分ならばどのような行動をするのか?と想像を強いられる。苦悩に満ちた日々をサスペンスタッチで描いたヒューマンドラマの秀作。
俳優としても第一線で活躍するショーン・ペンの監督・脚本第2作である。
クロッシング・ガードとは事故を防げなかった「交通安全指導員」のことだ。

フレディは愛する娘を突然失った絶望から立ち直れず、酒と女に溺れる堕落した日々を送り続けている。
フレディはジョンの出所を知り、激しい憎しみから、復讐を考えるようになる。
もしも自分がフレディの立場なら、復讐を考えないとは言えない。
途方もない喪失感から、愛していても妻の顔を見るのも辛くなるだろうし、無責任と言われようが、悲劇の苦しみを忘れようと家庭から逃げだしてしまうのも分からなくはない。

一方、加害者のジョンは刑期を終えて出所、両親をはじめ周囲の人々は温かく迎えるが、彼は罪の意識に一人苦しんでいた。
もしも自分がジョンの立場なら、飲酒運転を後悔し、一生背負う罪悪感に苛まれ、ムショ帰りという烙印に世間の風を冷たく感じるだろう。
いくら周囲の人間が優しくとも、素直には喜べるはずもない。
その気持ちも分からなくはない。

ジョンが出所後のある日、遂にフレディはジョンに銃口を向けるが、未遂に終わる。
いっそこの罪の苦しみから解放してくれと、素直に自分の身を差し出そうとするジョンにフレディは困惑する。
ジョンが出所を喜ぶ、反省していない人間ならば、迷わず引き金を引いただろう。

フレディはジョンに「3日後にまた来る」という殺人予告を残して去る。
そして3日後、フレディは今度こそ復讐を果たそうと、ジョンのもとに向かう。

環境は違えど、妻メアリーも加害者ジョンも、それぞれが生きるために前に進もうとする中、ただ一人間違った方向へ進むというより、過去に戻るように怒りを希望に生きる事しか出来ないフレディ。
臆病な反面、それを傲慢さで隠すしか方法を知らない哀れな人間だ。

運命の日、復讐に囚われたフレディの心を救うために、ジョンが一人では行けなかった場所へ、まるで諭すように誘うジョン。
追いかけっこの果てに辿り着いたのは亡くなった娘の墓。

娘の墓を目の前にして、憎悪と堕落に染まった生き方を恥じ、号泣するフレディ。
ジョンを殺したところで娘が帰ってくるはずもなく、ジョンの家族に新たな憎悪を与え、憎しみが連鎖するだけ。
そして自分自身も殺人の罪悪感に押し潰されるだけだということを知る。
当然、それは娘が望んだことであるはずもない。
なぜ早く気が付かなかったのかと、泣き濡れる姿はただただみっともなく、その感情の発露は生々しい。

それぞれの新しい人生を予感させるように、美しい朝焼けとともに映画は終わる。

フレディの痛々しい暮らしと、頑固な嫌われ者で弱々しくも情け無い心情の吐露が長いのが難点。
重苦しい物語の中、石橋凌が日本では演じないであろうゲイの役柄を、コメディリリーフのように演じていて、端役ながらなぜか印象に残る。

誰にでも起こりうる悲劇と生々しい程の傷ついた人間の心と葛藤がテーマ。
自分ならどうする?と考えずにはいられない作品だ。
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