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クロッシング・ガードのyoshiのネタバレレビュー・内容・結末

クロッシング・ガード(1995年製作の映画)
4.1

このレビューはネタバレを含みます

初監督作で自身の荒ぶれる自由な魂を投影したショーン・ペン監督の2作目。
反抗的な若者から、家庭を持ち、父親となった彼自身の心境の変化からだろう。
ショーン・ペンの提示する今回の命題は「もし愛する人を突然失った時、貴方はどうするのか?」「犯した罪は消えるのか?」という前作の主人公と打って変わって責任感を問うものだった。

そしてこの作品のテーマは、観る者を選ぶ。共感できる者を極端に絞る。
あまりに主人公が感情をむき出しにするので、鑑賞後に心が疲れる。

平和な日本では愛する人を突然失う確率は低い。共感出来ずに、映画の評価が低いのも、やむを得ない。

8歳の娘を交通事故で亡くした父親フレディ(ジャック・ニコルソン)が主人公。
彼は犯人ジョン(デヴィッド・モース)が刑期を終え、出所する日を指折り数えている。

当然、夫婦関係は既に破綻している。
それは結婚しないと分からない。

「愛する子どもの死」それはやはり誰か愛する人を失った者でないと分からない。

夫婦とは言え、所詮他人の男と女。
男と女の違いは狩猟時代にすでに刷り込まれていると言わんばかりに男女の違いが設定されている。

男は目的を遂げるまで、納得しないと行動を止めることができない。
女は子を産み育て、生活のために家庭を守らなくてはならない。
とても原始的な夫婦の設定だ。

これも結婚した者にしか分からない。
夫婦関係の真理の一つの形だ。

フレディが目的に選んだのは娘の復讐。
復讐の機会を待つ間に、フレディは悲しみを埋めるために酒に溺れ、寂しさを埋めるために娼婦を抱き、すさんだ生活を送ってきた。

何と言う原始的な心の溝の埋め方だろう…
しかしあまりに激しい感情の揺らぎと落胆に、おそらく大半の男はフレディと同じことをするに違いない。(特に酒は…。)

客観的に見れば、悲しみに暮れる寂しい男。決して根っからの悪人ではないのだ。

原始的な野生と、激しい怒りと苦悩が、その顔面にこびりついたジャック・ニコルソンは、このフレディの役にぴったりだ。

妻は頼るべき夫を失い、残された子の為、カウンセリングを受け、心の傷を少しでも薄めようと努力してきた。
思い出したくない過去の悲劇。
フレディーがジョンの出所を知らせに来た時、娘の死んだ後、家庭を顧みなくなったフレディに対し、「葬式にも行かず、墓参りに行ったこともない。墓碑銘や墓石の色さえ知らないくせに」と罵る。

いざというとき、精神面では男が弱く、女は強い。失恋や出産がその良い例だ。

ついにジョンが出所した日、フレディは娘の仇討ちにジョンの命を狙うが、弾丸を入れ忘れて失敗。(いざとなったら男は弱い)

ジョンは彼に3日の猶予を与え気が変わらなければもう一度、殺しに来ると言い残してその場を去った。

ジョンは人を殺してしまったという罪悪感を未だ背負いつつも、出所祝いのパーティーで知り合った女性と関係を持つ。
長く孤独な刑務所生活の末に、心の拠り所を得たジョンが語る交通事故の真相が悲しい。
自分が車でひいてしまった少女。
「ごめんなさい。ちゃんと左右を見ていれば…」と被害者である少女に謝られたジョンは、長い間自分を責め続けていたのだ。

そんな罪深い自分を無条件に受け入れてくれる両親にジョンは感謝の言葉を述べる。

彼も決して悪人ではないことが静かに語られる。むしろ長い刑期で真人間に改心していたのだ。

深い罪の意識。善悪の判断がつかない観客にはわからない。

(筋肉質の大きな体に釣り合わないベビーフェイスのデビッド・モース。その顔の毒気のなさで、すっかり改心した刑務所帰りのジョンを言葉より身体全体の緩急で表現する。前作の耐える男よりハマり役だ。)

3日経っても、復讐の意思を捨てられなかったフレディ。
殺人が大罪であることも十分にわかっている。ジョンを殺したところで愛する娘が帰ってこないこともわかっている。暴力では何も解決しないことも。

ついに感情が破綻したフレディは、孤独に耐えかね、元妻に電話で助けを求める。

愛しい娘の思い出を…
奪われた激しい怒りを…
娘のいない喪失感と悲しみを…
どうしたらいいのか?
どうやって収めたら良いのか?
強がっていたフレディは泣き崩れる。
(ジャックニコルソンの主演映画の中でも彼の泣くのはとても珍しい。)

しかし、駆けつけた妻の優しさに理解を示しながらも、「今は憐れみしか感じない」と言われたフレディは、自分と同じ悲しみを共有してくれない、すでに娘の死を過去のものと発言した彼女の発言に怒りを感じてしまう。

(ジャック・ニコルソンと長年連れ添った元妻役のアンジェリカ・ヒューストン。演技を超えた実人生の二人の想い出が、セリフに深みを与える。)

ついに唯一の理解者であったはずの妻を失うフレディ。感情と目的の逃げ場を失う。

ここで性の対象としか見ていなかった若い女性(どう見ても少女)とフレディはダンスを踊る。
復讐の誓いを立て直すためかもしれないが、まるで娘の代わりのように、女性を愛おしく優しく抱き寄せて踊るシーンが美しい。

再びジョンの命を狙うべく、ジョンの家に向かおうとする途中、フレディは飲酒運転の疑いでパトカーに止められる。
まるで神が止めているかのようなタイミングだが、フレディは逃走。
パトカーのサイレンに気づいたジョンに、家の前で逆に銃を突きつけられる。

法的には復讐者を退ける正当防衛。
しかし、自分は復讐されても仕方ない。
娘の父親の命までも奪いたくは無い。

ジョンは銃を捨て、逃走。
追いかけるフレディ。

いつしか二人は娘の眠る墓地にたどり着く。
墓石に「パパを救ってやってくれ」と話しかけるジョン。
この時、自分は撃たれて娘の所へ行き、罪を償ってもいいと思っている。

初めて墓石の色を知るフレディ。
初めて、娘の死という現実を目の当たりにする。ジョンを撃っても娘は戻らない。

しかもジョンは娘の死に責任を感じ、ここでなら死んでもいいと、墓地まで連れてきたことを察する。

その時、フレディはジョンの改心と罪悪感、そして自己犠牲の心に触れ、そっと手を伸ばし、「許してくれ」と泣き崩れる。

「許してくれ」
ジョンの死は娘の意思ではない。
家庭を顧みなかったのも、復讐も、娘が望んだことではない。
娘の死は事故だった。
妻を夫として支えるべきだった。
ジョンを恨むべきではない。
ジョンの改心と娘への想いに気づかなかった。
溢れる後悔の涙。
「許してくれ」たった一言の告解の意味は幾重にも重なる。

ジョンとフレディがそれぞれの罪を乗り越えて、また人生が続くことを象徴するかのように静かに夜が開けていく…。

この映画のコピーにあった「魂の救済」は二人には無い。孤独を分け合い、娘の死を改めて受け入れただけだ。

「許してくれ」
この一言の為に、この映画が存在する。

愛することが下手だった。
愛を充分に与えられなかった。

もっと小さい頃から「交通安全指導員(クロッシングガード)」のように危険から守ってあげれば良かった。

察するまでもなく、主役の二人は監督ショーン・ペンの分身である。

フレディは家庭を顧みない、怒りの化身。
ジョンは後悔と改心の化身。

フレディは責任から逃げ、ジョンは罪を償うべき責任感を負った。

テーマは「家族に対する責任感」である。
ハリウッドの問題児であったショーン・ペン監督の人間的な心の成長と変化が感じ取れる作品である。

残念ながら、万人向けの映画ではない。

観る者が親であれ子であれ、家族に責任と罪悪感を感じていないと、共感することは出来ない。

ジャック・ニコルソンの演技とショーン・ペンの練られた脚本の意図を感じ取るには、人生経験が必要なのだ。

若い人にはまだ早い。

私はこの映画を、自由を満喫していた若い頃に劇場で観た。
DVDを購入して、じっくりと再見した今回、号泣してしまった。

しかし、この作品を35歳の若さで作り上げたショーン・ペン。
彼の並みならぬ人生経験と感受性の高さには、ファンの私でさえ驚かされる。
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