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砂の器のesのネタバレレビュー・内容・結末

砂の器(1974年製作の映画)
3.9

このレビューはネタバレを含みます

松本清張が1960年から1961年にかけて読売新聞で連載していた同名小説が原作だが、野村芳太郎と橋本忍は映画化するにあたって推理サスペンスの醍醐味を潔いまでに切り捨てている。
捜査過程で手がかりを発見していく過程には重きを置かず、淡々とさらりと判明していく。文字(台詞)を使わずに映画だからこその映像と音楽を最大限に活用した犯人の動機を深掘りするドラマに作り替えたのは大胆で凄いと思う。

犯人の動機を深掘りすると書いたが、肝心の和賀英良(本浦 秀夫)が命の恩人である三木を殺害するに至った動機に関しては鑑賞者の受け取り方に任せている所がまた良い。
三木は背どりの事実を吹聴するような人物ではなく、かつて助けられた和賀もその事は理解していると捉えられる為に犯行に至る動機がない。人物像を膨らませすぎたが故に肝心な部分に齟齬が生じているが、だからこそ身バレを防ぐという単純な動機以外のものに想像力が掻き立てられる。

個人的には、三木の善良過ぎるまでの善良さは和賀英良にとっては薬でもあり毒でもあったのだと解釈した。

本浦親子の命は三木により救われたが、ハンセン病を患う父と息子を引き離す当時の隔離政策に則った三木の常識的に正しい優しさは、まだ幼い本浦秀夫の世界の中心を奪う行為でもあった。その後の三木夫妻の優しさは秀夫にとって救いでもあったが、2人の優しさに触れる度に父親の面影を忘れていってしまいそうでそれが恐ろしく後ろめたくなり逃げた。
それ以降は生き残る為だけに生きて割り切った人間関係を築き、現在と過去を切り離し父との思い出を掘り起こしながら作品に昇華する創作活動を軸に和賀英良という人間が出来上がった。しかし、そんなある日、過去の思い出を無理やり現在と繋げようとする三木が現れる。もしも余命いくばくもない父に会ってしまえば記憶の中の父は消え去り、創作の源も失われる。現実の父は死にかけているが、会わずにいれば心の中の父に会える。もしも会ってしまえば現実の父は死に、心の中の父も消え去る。
かつて三木は善意から本浦秀夫という少年の心の軸を奪い殺した。そしてまた和賀英良の心の軸である創作の源を奪い殺そうとしていた。和賀による三木の殺害はある意味、自分を守る為の正当防衛だった。

という妄想をしてみた。

原作とは違い、和賀がロマン派の作風を持つピアニストに変更されている辺り、的外れな妄想でもない気がする。
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