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砂の器の教授のレビュー・感想・評価

砂の器(1974年製作の映画)
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「日本映画史に残る名作の1本」みたいに言われる本作。観ていて「?」ってなった。
野村芳太郎監督の作品とは相性が悪いのもあるが、作劇の緩さ、ポンコツさに驚く。
さすがにドラマが薄いのだ。

冒頭の秋田、亀田での何の手がかりも見つからない無駄足の「旅」。
ある意味では本作の表現しようとしている示唆にもなるのだが、アテのない時間の中をそれなりに楽しむ今西警部補(丹波哲郎)と意気盛んな吉村刑事(森田健作)の対比。
この後の展開でわかることだが、今西は職務に対して忠実な一方で、悠々と出張名目の旅を楽しんでいて、地道な証拠集めや捜査の決め手を見つけていくのはむしろ吉村の方だったりする。
そこが物語上の欠陥であったりするのだが
作劇としてはまったく機能していない。ただそこが脚本橋本忍の「遊び」に見えるところが腹立たしい。

一方で事件の被害者となる三木(緒形拳)は周囲から非の打ちどころのない人格者として描かれる。ここに容疑者である和賀(加藤剛)の明確な殺害の動機を示すエピソードが驚くほど割愛されている。

正直、割愛と省略、それらを「捜査の過程で判明したこと」としてほとんどをセリフで説明してしまうので、ほぼほぼ作中退屈してしまう。
徹底して人物に対する背景やドラマを描かないというのも意図されたものだろう。
ただ意図されていたとしても、そこまで描写が卓越しているとも思えず、ただただダメな作品に見えてしまう。

その空疎な殺人事件と、ただただ自己中心的で、現実的な野心に駆られた和賀の背景として、また事件の真相として本作の白眉となる「宿命」というテーマ曲に乗せての和賀の少年時代とその父、千代吉(加藤嘉)との「お遍路」を彷彿とする放浪の日々。これまでの説明的な展開から一転し、映像と音楽のみで延々と見せていく。
これがいわゆる「映画的」なカタルシスを表出した意図はわかるのだが、その実験性に対して、ドラマが盛り上がりきってはいない。
というのは、つまり。
そこまでがあまりに力が入っていないからである。

和賀の冷酷なまでに芸術至上主義的なキャラクター。誰も信じることなく愛することなく、実父自体ではなく、その「記憶=イメージ」と音楽のみしか信じないその姿はヒロイックで、興味深いキャラクターであるのは違いない。
しかし、観客として彼の素行はあまりにも俗っぽい人間のそれであり、またエピソードとして幼年期の体験は描写されても、音楽との出会いや影響が描かれなければ、この大胆で実験的なシーンも、最大の効果は上げられない。

ましてや、あれだけ長尺で盛り上げた演奏シーンと回想、加えて事件の顛末を同時進行で見せていくアバンギャルドな構成も、その後まだ弛緩した形で映画が進行していく為、持続感がなく興が削がれてしまう。
ただ加藤嘉の一世一代の演技で観応えはあるので複雑な心境にもなる。

「傑作」と呼ばれていても、冷静に観るとそうでもない、という大きな気付きがあったので、その部分は興味深いこととして楽しめた。
逆に言えば「宿命」が流れるクライマックスのインパクトが実に「映画的」なシーンであること、それが冷静に観ればあまり出来が良いとは言えない本作が観客を巻き込んで傑作と呼ばれるようになっているという意味では「映画の力」を感じさせるとも言える。
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