よし

砂の器のよしのネタバレレビュー・内容・結末

砂の器(1974年製作の映画)
4.3

このレビューはネタバレを含みます

なぜ秀夫は可愛がってくれた三木巡査の元を逃げ出したのだろう。
そのまま暮らしていればきっと健やかに成長し、治療を終えた父親にも会えたはず。

誰もが思うであろうその疑問を突き詰めた時に、映画というか松本清張の意図を感じることができるように思います。

秀夫の対人間への嫌悪感、幸福への諦念は彼の2年に渡る幼少期の辛い旅が基盤であるのは間違いないと思います。
村からは追い出され、行く先々で冷たくされ、乞食だといじめられる。当時、ハンセン病は感染すると思われていたので周囲の態度は仕方のないものかもしれないのですが、幼い子供からすればとても冷淡に映ったはず。

そんな時に出会った三木巡査は初めての優しい人間であったため、秀夫は混乱してしまったのだと思います。私は始め、父と自分を引き離した三木巡査を憎んだから秀夫は逃げたのではないか、と考えたのですが、どうもそうではないように思います。父のように優しくされる内に三木巡査を慕う気持ちが強くなり、父親以外を愛したことがないからどうしていいか分からなくなってしまったのではないかな、と思うんです。

そして、大人になった秀夫の周りの人間は秀夫に優しく、彼の才能を愛し、尊重してくれます。その中で秀夫は自分本位なふるまいをするけれども、それが冷血さを感じるどころかむしろ人間的に感じるのは、私たちが彼が人を愛せない、愛することを恐れている人間だと知っているからです。

秀夫はとても卑怯で、愛してもらうだけで自分からその愛を返そうとはしない。父親に会って今の成功をぶち壊したくない。
彼がこう考えるのは多分、彼にとって誰かを愛することは苦しい旅の日々とイコールだからです。彼は愛するものを失ってから人生が上向きだしたため、誰かを愛することが怖いのです。

ただ、彼が本当に誰も愛さない機械のような人間であるならホステスの恵美子は使い勝手の良い駒としか感じなかっただろうし、連れ戻そうとする三木元巡査に苛立つこともなかったのだとも思います。



この映画のタイトルが曲のタイトルとして何度も出てくる『宿命』(ハンセン病の父とその息子に生まれてしまった秀夫の人生の不遇)ではなく『砂の器』なのも、彼の生まれにではなく、秀夫自身の脆い心に主眼を置いているからだと思います。

音楽の中でしか父親に会えない

秀夫を良く表している言葉だと思います。

ほとんどストーリーについてのレビューになってしまったのですが、映画の構成としても好きです。
今西刑事の行く先々で和賀英良がちらちら出てきて、この人が犯人であるはずなのに、始めは全く接点が見えず、徐々に近づいていくミステリー仕立てで、あらすじを知っていてもその過程を楽しめます。少し駆け足に感じるシーンがあるもののそれ以外に不満を感じません。

また、加藤 嘉(本浦千代吉)の演技がすごい。この人を観るためにもう一度映画を観ても良いというくらい素晴らしい。
父子が旅をする映像と『宿命』の音楽のリンクもどうやって撮ればあんな風に撮れるのか。すごい映画だと思います。
よし

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