せみ多論

砂の器のせみ多論のレビュー・感想・評価

砂の器(1974年製作の映画)
4.5
とある殺人事件を、東北弁訛りの様な『カメダ』という言葉だけを手がかりに追いかける二人の刑事。そして事件の解明とともに明かされる大きな人間ドラマ。

ミステリー、サスペンスの体をしているものの、犯人は明らか。
つまり物語の肝要は、誰が犯人かではなく、なぜ犯人は犯行に及んだのか、これに尽きると思います。

そして、自分の見落としがなければですが、作中で犯行の動機については明言されなかったと思います。あえてそれは見る側に投げかけられたのでしょうか。

もちろんそこに至るまでの過程や、犯人の現在、そして幼少期からその生い立ちまで、このあたりの映像や演出は抜群だと思います。
度々作中で使われている遠景のシーンが全編印象深く美しい。特に後半の映像は強烈。美しい景色と対比されるような親子二人、厳しい景色にもまれるような親子二人。セリフ一つないシーンの連続であるのにここまで訴えるものが撮れるものなのかと驚くしかない。

さてさて、それでもって犯人の動機について考えるとなんだかいろいろ浮かんできてしまうので雑多に。

犯人は自らの素性を隠し、現在までの地位に上り詰めてきた。つまり出生であるとか実の父であるとか、またその父の病についてであるとかを表ざたにしたくなかった。そのために犯行に及んだ、というのは何も捻りがないけれども、筋の通った理由といえるのでは。

ただ、自分の見た限りでは、犯人は実の父に対してそのような疎ましい思いを抱いてるようにはとても感じられなかった。
幼少期に別れて以来一度も会うことのなかった父を、犯人は愛していたとしか思えない。ならばなぜ犯行に及んだのか。
作中終盤で、刑事の一人が、実はまだ存命であった犯人の父を訪れ、犯人の写真を見せ、「心当たりのある人物か」と尋ねると父は嗚咽しながらも「知らねぇ!」と言う。涙を流しながら、わが子の面影に気づきながら、他人のふりをする。
このシーンは砂の器最大の名シーンだと思っていますが、この病の父が、子の幸せを思う心を、わが子に一目会いたいという願いよりも強く主張する心理。これと同じものを犯人も持っていたのではないかと思います。
必ずや成功することが、今生の別れを遂げた父との日々に報いるような、父と会ってしまうことで崩れていく自分の人生を最も悲しむのは自分よりも父だということを解っていたうえでの犯行だったのではないのかなと感じました。
二度と会わないということが親子の絆であり、作中でも出ている宿命であり、またその思いの果てに、脆くも崩れ去ることが、まさに砂の器なのですかね。

この映画を見て本当に良かったと今はそう思っています。
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