荒野の狼

千利休 本覺坊遺文の荒野の狼のレビュー・感想・評価

千利休 本覺坊遺文(1989年製作の映画)
4.0
「千利休 本覺坊遺文」は1989年の107分の作品。京都の大徳寺は利休の死の原因と関係する金毛閣(外観の鑑賞のみ可能)や利休の墓(聚光院にあるが特別公開の時でも見られない)があり、利休との関係は深い。私は、本作を大徳寺を訪れた直後に鑑賞。大徳寺は、非公開の塔頭・茶室が多いが、本作に登場する大仙院の庭は史跡・特別名勝で常時、一般公開されており、本作では織田有楽斎と本覺坊の会話が、この庭を見ながらのもの。他に本作では金毛閣の脇を本覺坊が歩くシーンがある。
本作の登場人物では、古渓(こけい)が大徳寺第117世住持であり、利休の切腹の際に、立腹した秀吉が大徳寺の破却を試みるが、古渓が使者の前に立ちはだかり短刀で命を絶とうとしたため、秀吉は慌てて使者を引き上げさせたと言われている。しかし、本作では古渓は登場するが、東野英治郎が演じて、かなり高齢なイメージで、上記のようなエピソードも本作には描かれていない。史実としては、古渓は利休より10歳若いが、禅僧として、利休を30年にわたり指導した。本作の利休は三船敏郎で東野より13歳若いので、年齢的には史実と異なる配役ではある。
本作の魅力の一つは、当時の主だった茶人が個性的に描かれている点。登場する茶人は、織田有楽斎(演、萬屋錦之介)、古田織部 (演、加藤剛)、山上宗二(演、上條恒彦)、千宗旦(演、川野太郎)。特に、有楽斎の錦之介は存在感が強く、ラストシーンの迫力は凄まじく、このシーンだけで、本作は錦之介の映画になったといってよい。錦之介は、本作が映画としては遺作だが、まさにふさわしい演技。
茶道については、茶人としての厳しい道は描かれているが、哲学としては、以下のセリフがひとつのキーワードとなっている。“「無」と書いた軸を掛けても何も無くなりません。「死」と書いた軸の場合は何もかも無くなる。” ここで、物足りないのは、「無」の東洋思想における捉え方の説明がないこと。これでは、その対照としての「死」の意味もわからない。ちなみに、“「死」で何も無くなる”という思想は輪廻転生や縁起といった東洋思想とは異なり、原作者の井上靖のオリジナルかもしれない。本作で描かれる茶人の死生観はユニークだが、哲学的掘り下げは今一つ。
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