ナガノヤスユ記

永遠の人のナガノヤスユ記のレビュー・感想・評価

永遠の人(1961年製作の映画)
3.8
憎悪にはじまり、憎悪に終わるある夫婦の一代記。阿蘇の雄大な自然に映える小さな人々の業深さ。高峰秀子と仲代達矢のノーガードの打ち合いが耳に心地よく、章立てで反復していく同ポジの構図と構成など、見事という瞬間がたしかにあるものの、どう考えてもミスマッチなあえてのフラメンコ劇伴、奥→手前→奥のやけに奥行きを強調したカット割りなど、仰々しい演出が目につくのがどうしても惜しく感じてしまう。自らの血の中に流れる憎悪の因果に飲み込まれ、火口に向かっていく田村少年の後ろ姿が切ない。互いが不幸である、しかもその原因は自分にある、という確信、背徳、自己/他者への憐憫。愛などというもの悲しいファンタジーとはまったく異質の、圧倒的な現実で繋がれた夫婦、わたしはひとつの真理であると思う。と、同時に、ファンタジーの介入する隙を許さないその超現実的なストイシズムは、多くの人間にとってはむしろこちらこそが非現実の領域であるかもしれない。婚姻とは、そもそもがファンタジーに付与される延命装置のようなものか。
当然ながら、ここにおいてはもはや「許す / 許さない」という次元さえもとうの昔にただのファンタジーと化している。この夫婦にとって、そもそもの発端さえ問題ではない。憎しみつづけること、憎まれつづけること、それだけが関係の支柱をなす。
ゆえに、次男・守人から母親への訣別のセリフ以降、隆の死に際に交わされる夫婦の交渉まで、あれらの会話は根本的にテーマが上滑りしている。それは、この夫婦が気づいていない、というシニカルな視点を加えているつもりなのかもわからないが、だとすればやはり不要な拡張であると思う。潔く、憎みあい、憎まれつづけた先にどう落とし前をつけるか、それだけがすべてであってほしかった。