ルサチマ

憐 Renのルサチマのレビュー・感想・評価

憐 Ren(2008年製作の映画)
5.0
現実離れした厨二病と言われかねない岡本玲が、川辺に集うクラスメイトとは1人異なる方向へ影を伸ばしながら、友人の死について語り合うグループショットを形成する。

同じ制服を身に纏い、同じ自転車に乗り、放課後にはバスケのゴールの柱と同じ方向への影の形を形成してきた高校生たちはロングショットの長回しの中で、死さえも長回しという演劇的ルーティンの世界に放り込んできたはずだった。岡本玲はその長回しのロングショットの中にそっと生きるのであり、彼女は切り返しの世界の中に放り込まれまいと生活する(家庭の中において彼女は優しくされるほど、率先して切り返しの世界を生きようとして、学校とは異なる個としての態度を示す)。

風邪で学校を休んでいた馬場徹が学園生活に戻る時、彼はロングショットに紛れ込む岡本玲を教室の中で単独のショットとして認識することに成功する。そしてさらに岡本玲から刻のナイフを真正面から受けることで切り返しの世界に風穴を開けてしまうのだ。
岡本玲の生きていた演劇的長回しを異化するように、馬場徹こそが切り返しの世界を導入する存在であり、学外でのクラスメイトとの交流はそこから生まれる。

そしてこの浮世離れした物語のナラティブは次第に転校生と彼に恋する憐の友人へと移ろう。

彼らもまた真夜中のバスケによって、ゴールが決まるか否かのロングショットの長回しの世界に生きながらも、ゴールから弾かれるボールの自由気ままな流れにより、転校生とその彼女の間にボールの受け渡しの切り返しを導入する。2人の放ったシュートのゴールが決まるたびに感動するのは、長回しの持続への緊張からもたらされるものであることは明らかであり、青春的爽やかさは画面上からはひっそりと影を潜めている。

この転校生こそが時の意思であることは後に明かされるのだが、彼に恋した憐の友人が生前の最後に銭湯から出てきた憐へ向かって自転車で遠くから振り向き、そして手を振った後、闇の中へ入り込んでいくショットの恐ろしさは筆舌にし難い。あらゆるホラー映画のどのショットよりも恐怖に戦慄し突き落とされたような感覚になる。

憐の友人が導かれる死とは、時間(記憶の蓄積)から離れ、無の時間(ブラックホール)へと向かうものとされる。

目撃者としての2人は友人の死の出来事を反射し、クラスメイトへ事件を伝える存在だ。観客は映画の序盤に車に轢かれた少女と、終盤に自殺の道を辿った友人の死に立ち会うことで、岡本玲と馬場徹と共に目撃者の1人として、彼らのリアクションを通して死を経験する。
だが、一方が長回しの中で死を捉えていたのに対し、一方が切り返しによって死を捉えていた変容を無視することはできない。

死が演劇的長回しから、絶対的出来事として切り返された時、死は特権化され、同じ制服を身に纏いながらも自殺した女生徒は個として画面に存在し、グループショットが己の死を話題として形成されている(他者の死によって、共同体は存在する)ことを露わにする。

※岡本玲の通学路の少女が死を経験した長回しは、画面の奥で世間話程度に会話がなされるだけで、死が決定的にグループ形成へ導くものではなかった。事実その話題の直後、馬場徹はグループから離脱をする。

だからこそあの13分間の長回しにおいては転校生なる存在が語る「時の意思」にまつわるフィクショナルな話であっても、岡本玲と馬場徹を介して死の気配を感じ取り、観客はただの言葉の説明台詞をリアルなものとするか、もしくはリアリティのない説話について退屈な時間(現在の時間)を認識し、物語への簡単な没入を拒むか、もしくはそのどちらもを体験する。しかしながら、堀禎一は長回しの中で演じられる(語られる)物語と観客との距離を繋ぎ止めるものとして、焚き火の持続(バスケのシュートの連続と似た緊張感を与えるモチーフ)をそこに存在させる。この火こそが、確かに記録されたリアルな時間としてフレームの中の緊張の密度を保持し、観客は画面で語られる明らかなる虚構の世界に表象された政治の縮図(時の意思/行政に対する憐=市民の革命とその許容)を我々の現実世界と地続きのものとして想像することが可能となる。徹底された画面の中の余剰性を排し、水辺と炎、それ以外の要素を捨て去ったロケーションで語り(想像への喚起)が行われるのはそのためだ。

そこで転校生が岡本玲へ語りかける「君が未来を創るんだ」という台詞は、「時の意思」の原因である転校生そのものを忘却することで、クラスメイトを生き返らせるという理屈の上で成り立つ。

ここにおいて転校生の彼は最早切り返しの中で死を導かれるのではなく、長回しというルーティンの中で消滅することを取り戻す必要がある。つまりは死を絶対性の中に捉えるのではなく、日常の中に取り戻すこと。

死という本来それだけで個人にとっては絶対的になり得る出来事さえも、全体の中へ埋没し、忘却されてはじめて、人々は仲良しごっこに興じる。それは必ずしも肯定されるべきことではないが、そうせざるを得ないことも同時にこの世の摂理として提示される。

もちろん死は紛れもなく誰にも存在しているのであり、忘却の彼方で現代の時間を生きる我々に静かに波紋を拡げる。

その存在を長回しの中で認識し、たまに思い出そうとすること。
演劇的長回しの世界があらゆる死者の記憶をもとに成立することを示した上で、己もいつかの死者としてグループに切り返しを見出すとき、つかの間でも仲良しごっこに興じるため「こんにちは」と、長回しの世界へ呼びかける勇気を持つ困難を強烈に喚起させる。

グループショットの中の人物だけでなく、過去に、そして未来に存在する人々との間においても接続を試みることへの挑戦を、最後の昭和83年と書かれたカレンダーは呼びかけている(こう書くと堀禎一は最もソーントン・ワイルダーに近い存在だったかもしれないという気がしてくる!)。

しかし松村浩行『TOCHKA』があって、さらに堀禎一『憐 Ren』が並立して存在する2008年の日本映画は世界を見渡しても本当に凄い。
21世紀以降の映画史において2008年の日本映画の質の高さは映画史を革新させてしまっているんじゃないか。
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