ーcoyolyー

渚のシンドバッドのーcoyolyーのレビュー・感想・評価

渚のシンドバッド(1995年製作の映画)
4.0
1995年に「同情ファシスト」という言葉を浜崎あゆみに吐かせている。「感動ポルノ」にどこか通じるような意味合いで。その感情というか事象に名前を付けるのが早い。そしてその同調圧力を撥ねつける浜崎あゆみ。それがこの映画で初めて話した言葉。

あの時、東京に出てきてすぐ、大学の同級生と映画館に行って倒れた私がいるので再見するのがずっと怖かった。海があって山があってドックがあってロープウェイがあって坂があっていつも風が吹いている港町の高校の吹奏楽部でクラリネットを吹いている。そして性暴力被害者。すなわちそれは私だったからです。大学1年生の私とは距離感が近すぎた。吹奏楽コンクールの日の市民会館、高校卒業したばかりの私にあの空気が蘇るのはさぞかし苦しかったろう。頑張ったな。

それから四半世紀以上が過ぎた今の私は少々の吐き気程度でこの映画を優しく受け入れることができている。戦ってきたんだな、戦えてきたんだな、良かったな、頑張ったんだな、と思う。

私がずっと一緒に生きてきた浜崎あゆみはこの子でしかなくて、その後一世を風靡した歌姫は私の中では上手く像を結べない。彼女が作り上げてきた虚像の下のこの子としか私は上手く話せない。虚像としての彼女の戦いは蜷川実花に弄ばれて丁度良いくらいのものなので、私と対話する言語を持たない。その下に隠されている彼女と私はずっと対話してきた。そうやって生きてきた。

この映画はオールタイムベスト10本を選べ、と言われた時に入るかといえば微妙な線なんですけど私のことを知りたい3本を選べ、なら確実に入る。『ヴァージン・スーサイズ』と『渚のシンドバッド』は不変で最後の1本をその時の気分で『エコール』だったり『パリ、テキサス』だったり『ボルベール〈帰郷〉』だったり、もしくはアスカは私だからエヴァの何かだったり揺れると思う。

あの頃の私を支えていたのは松浦理英子と岡崎京子と小沢健二で、その人たちに会うために東京の大学入るぞ、とそれだけが希望でひたすら勉強してました。11月の終わり頃から。この映画とその点は違って、私の高校の吹奏楽部は強豪で全国大会出場した絡みで引退時期がずるずる伸びていったからです。学校行事として秋口にありがちな芸術鑑賞会、その年に吹奏楽部が全国大会出たから外部から呼ばず吹奏楽部の演奏会でいいんじゃない?とか知らないところで決められていたからです。クラスメイトには「なんであいつあっちにいるの?推薦組じゃないよね?一般入試組だよね?」とザワザワされてましたがそれ一番思ってたのは私。推薦組が既に進学先を決めている中、もう何もかも抗う気力がなくてやってくるものをそのままこなしているだけだった。プレッシャーとストレス凄くて胃に穴空いたけど。

そんなこんなありつつなんとか念願叶ってやってきたその東京の大学の学食でぴあを読んでいたら岡崎京子先生が描いていた『渚のシンドバッド』評1ページ漫画は今でも私の手元にある。『渚のシンドバッド』パンフレットに挟んで。私の手元にパンフレットがあるってことは購入したんだろうけど観終わった後の私は倒れたのにいつ購入したんだろう?観る前に買ってたのかな?私がパニック発作を自分で自覚したのはエヴァのアスカの精神汚染のシーンを見ていてアスカにシンクロ率400%で入り込んでしまっていたためにアスカが壊れてしまったのと一緒に壊れた時なんですけど、この映画観て劇場で倒れてしまったのも今振り返るとパニック発作ですよね。映画館が苦手なのは『トリコロール 白の愛』をシネマロサで観ていた時に痴漢に遭ったのが原因だと思っていたけども、ここで倒れているのも遠因としてはありますねきっと。

今観れて良かったな。もう怖くない怖くない大丈夫、と震えながら自分に言い聞かせなくても良い。いっぱい戦って受け入れる度量ができたことが分かったから。良かった。今までもこれからも私はこの映画と一緒に生きていくから、もう怯えなくても良いということは生きることがだいぶ楽になるような気がします。
ーcoyolyー

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