すえ

チャップリンのニューヨークの王様のすえのレビュー・感想・評価

3.9
記録

最盛期の頃の作品に比べるとさすがにキレが落ちたと感じるけど、十分に良い作品。風刺、皮肉に満ちて、チャップリンの思いがよく伝わってくる。前回観た『殺人狂時代』と並んでアイロニカルな笑いが多かった。
喜劇王のチャップリンが笑えなくなるというシークエンスがめちゃくちゃ良かった。後半が結構面白い分、前半が少しつまらなく感じてしまったのが残念。
やっぱり老いたチャップリンを見ると寂しくなる。

2023,147本目 5/11 VHS
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 私が1951年の暮れにロサンゼルスのラ・ブレアのチャップリン・スタジオに行きたい、チャップリンの撮影をひとめ見たいと、ハリウッドのあらゆる人にたのんだが、誰もが首をたてには振らなかった。それは私に不親切なのではなく「会わないほうがいい」という口には出さぬ忠告だった。けれどもいま現にこのロサンゼルスでチャップリンが「ライムライト」を撮っていると知ると、私はやも“たて”もなく我慢ができなかった。ある人は、チャップリンに会うと君のパスポートは警察にとられるよ、とまで言った。それがどうしたというのであろう。そんなことは平気だよと私は言いかえしてやった。そして結局ついに「ライムライト」のセットで私はやさしいチャップリンに会って泣いてしまったのだった。のちに、このときはもはやチャップリンとは別れてしまった、チャップリンのながらくの秘書の高野氏に聞いたのだが、もう「独裁者」のころからチャップリンをアメリカの軍部はマークし、「殺人狂時代」(1947年)のあとアメリカはチャップリンをあらゆる理由、それも未成年の娘と結婚したとかいろいろの理由をつけた何十頁もの書類を作り、チャップリンのアメリカ追放を本格的にやりだしたということだった。そんなときに「ライムライト」は撮影中だったのであった。それで、怒りよりもあきらめに近い怒りがこの映画を染めた。
 この撮影中に私は、セットでチャップリンに会った。私がマイクの下の演技中のチャップリンを見て涙したのを、チャップリンはこの日本の映画人をいろんな心でやさしく見てとったのであろう。チャップリンのあらゆる怒りと寂しさを知る私を、チャップリンは抱きしめてくれたのであろう。それから3年、4年チャップリンは沈黙した。1953年、アメリカから石もておわれるようにイギリスに渡って3年、4年。チャップリンはつらかったにちがいない。そしてその胸のうちをおさえて1954年から55年にかけて書きあげた脚本が「かつては王様(ザ・エクス・キング)」という題名の新作だった。
 ヨーロッパのエストロヴィア(仮想国)の国王が革命のため国を追われアメリカに亡命。ニューヨークへ。そしてこの国王の見た、知った現代のニューヨーク。まず入国手続きの指紋。高層ビル。ネオン。パトカーのサイレン。映画館のシネマスコープ。予告編は西部劇の撃ちあい。ピストルの音とそして右に左に広い画面を見ているうちに国王は首が痛くなる。レストランのジャズ。そしてテレビのニュース。首相が国王の債券と現金を持ち逃げして南米へ。いまや無一文の国王。この国王、ついにテレビのコマーシャルに出るはめにいたるというアメリカのテレビのこの描写。さらにここに10才の天才少年が校長の紹介で国王に面接、この少年の博学とスピーディーな発言に国王は圧倒されるが、この子の両親がコミュニストというので非米活動調査委員会の調査員に国王もが非米活動の疑いをもって調査を受けるはめになり、大騒ぎの果て国王はニューヨークを逃げるよう去ってゆく。
 この映画はやがて『ニューヨークの王様』と題されて1957年9月12日ロンドンで封切られた。日本は1959年2月封切だった。しかしアメリカがこれを封切ったのは1976年。ストーリーをちらっと覗いても、チャップリンがいかに自分を追放したアメリカに“しっぺがえし”をしているかがわかる……。だがとくにチャップリンを愛し、チャップリンを知る人たちは、ただ単純にそのようなチャップリンのヒステリックな映画だけと見ることをいましめた。ここには「モダン・タイムス」があり「独裁者」がひそみ、つねにチャップリンが画面に塗りこめる風刺が、皮肉が、怒りが、『ニューヨークの王様』をまさしくチャップリン映画、いうなればイギリス人チャップリンの映画にしているのであった。ここで思い出すのはチャップリンがアメリカ生活のながいあいだ、ついにアメリカ国籍を持たぬままにいたったことをも、アメリカ当局の一部では不快に思ったと噂された。なぜチャップリンはあれだけアメリカでかせぎながらアメリカ人にならぬかというわけだ。しかしこのうすっぺらな考えを私でさえ笑いたくなる。チャップリンはトーキーを嫌った。世界中が同じ言葉なら戦争はおこるまいと説いた。アメリカ人とかイギリス人とか、なぜそのように差をつけねばならぬのか。「独裁者」を命をかけて作ったのも、人種差別にうつつをぬかした非情のヒトラーへの怒りであった。そして『ニューヨークの王様』は第二の「モダン・タイムス」すなわち非米活動委とか、国王までをもコマーシャルに使いたがる現代の商策、天才少年から童心をはぎとり、非米活動委への密告を強いる大人たち。「モダン・タイムス」の非人間がここに拡大されたのだ。かかる映画を作ればアメリカはとてもでないが封切るまい。チャップリンは映画、自作の映画を、つねに最高額に吊りあげる商人ともみなされているが、それは自由への誇りと信念である。商いいっぽうなら「独裁者」「殺人狂時代」は作れまい。チャップリンは自分の信念をもとにして、そのとき、その場の感情を自作に染める。チャップリンがこの『ニューヨークの王様』を作ったときは68歳。そしてこの年(1957年)の5月23日にウーナ夫人とのあいだで6人目の4女ジェーンをもうけている。このあとアネット(1959年)、クリストファー(1962年)が生まれている。チャップリンは『ニューヨークの王様』を、いうなれば“68歳の若さで”完成したのである。皮肉と見るもよし、ヒステリーと見るのもいい。しかし『ニューヨークの王様』はもっとスケールの大きい、映画史上注目の一大風刺作と見るべきである。チャップリンの映画エネルギーはまだまだ弱ってはいない。
 さてチャップリン映画を見てチャップリンがいかに映画を愛し、映画を楽しみ、映画に実に“映画ファン”的な趣味を持っているかをも常に知るのである。たとえば「街の灯」のハリー・マイヤーズやハンク・マン。「モダン・タイムス」のチェスター・コンクリン。「独裁者」のジャック・オーキー。「殺人狂時代」のマーサ・レイ。「ライムライト」のバスター・キートン。「伯爵夫人」のマーロン・ブランドとソフィア・ローレン。すべてオールド・ファンからモダン・ファンまですべての映画通を楽しませてきたスターたちを共演させていることの面白さ。キャメラにいたってはあの「ル・ミリオン」「巴里祭」「自由を我等に」のジョルジュ・ペルナールとはとの組み合わせで胸がつまる楽しさだ。
 さて、『ニューヨークの王様』にもドーン・アダムスを起用している。アメリカ映画「月蒼くして」「聖衣」などに出ていたが、やはりチャップリンごのみのフェイスがうなづける。実はこの役は初めは「魅惑の巴里」のケイ・ケンドールだったのだが、彼女が病気となり、ドーン・アダムスに振りかえられた。アメリカの天才少年に扮したのはチャップリンの8人の子供のうちの長男の1946年生れのマイケル。この子は「ライムライト」では町かどでオルゴールを聞く3人の子供(すべてチャップリンの子供たち)の1人として出演している。このほか弁護士グリーンに扮したガアガア声のハリー・グリーンは懐かしいアメリカ映画の名作の有名“わき”役。チャップリンはアメリカ映画のすみずみまでを実によく見ているのであった。この映画からこのあと自分は監督のみの「伯爵夫人」(1967年)をとったあと1972年4月にチャップリンはアカデミー特別賞を受けるため、20年ぶりに訪米した。チャップリンはその式場で「ありがとう」と言ってこの賞を受けとった。普通人のできることではない。当夜はフィルハーモニー・ホールで「キッド」その他が上映され、チャップリンが舞台に、あるいは客席に現われるということで入場料の“やみ値”の最高が、当時の金で30万8000円という値がついたという。
(解説:淀川 長治)
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