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カジュアリティーズのotomisanのレビュー・感想・評価

カジュアリティーズ(1989年製作の映画)
4.0
 二十歳そこそこの三等軍曹に率いられた分隊計5人が、数日間敵地に潜入する長距離偵察に就き、その任務の隠密性、孤立性にかこつけて非戦闘員と推定されるベトナム人女性を拉致、監禁し暴行、レイプを働いたのち足手まといを理由に殺害する。
 5人中首謀の軍曹1名と加担した伍長、「古参」兵各1名が積極関与、新入通信兵1名が日和見で関与。ただひとり、4週目の新兵エリクソンだけがこれを非難し他と銃を向け合う険悪な状況に至るが同士討ちは踏みとどまる。
 しかし、行動の目的であるベトコンの集結地探索で現場に臨みながら、目的に反しこの犯行被害者の処置でエリクソンと意見を衝突させた軍曹以下は軍務を乱して遂に仲間割れに至り、不要な戦闘を行い、被害者をその間に殺害、来合わせた米軍舟艇も不用意に戦闘に巻き込み乗員全員を死亡させる。
 エリクソンの訴えを受け上官たちはこの件は、「必要悪」を作戦に介在させた悪い戦果として認識するものの、ただし、「悪」よりも「必要」を先に立てる事で皆、見て見ぬふりに決着させる雰囲気が濃厚だった。

 大統領からして続けたくない戦争だが、止める切っ掛けも仲立ちも得られない。そんな中、戦争目的も迂遠にしか聞こえず、もう死に体な南越のために、毒虫と泥まみれの戦場のどこに意気に感じて真っ先駆けて突進する兵士がいるだろう?
 暴挙の大本、軍曹さえ、反発するエリクソンを始め何人も戦友を助けてきて今の地位にあるのだろうが、戦場は嫌いだといい、自らを大悪党ともいう。きっと誰もがこの戦場で自分の「必要悪」性に気付き、その中毒に掛かっている事にも気付いているのだろう。
 それを思うとき、エリクソンの立場に立ったら何ができるだろう?必要悪論を諭す上官たちは転属と順応と答え、他部隊の同僚はイカれきったと見えるペン分隊に照らしたらそれは分からないという、しかしエリクソンは真っ当である事に照らして見て見ぬふりはいけないと反論し、この現場にいる立場だからこそ司法への訴えを起こさねばならないと決心する。だが、その決心のためにももう一人すでに病み気味の新兵ひとりの生贄が必要なのだ。

 自国の事も他国の事も知らないが、ここがアメリカのアメリカらしいところなんだろう。軍隊と言っても別に超法規的団体なわけではない。軍内部にも司法を司る機能が組織も実力も持っていて、軍とそのほかの区分け、作戦行動とその範囲外、指揮とその埒外の見極めを軍法に従ってはっきりさせる。日本では総理大臣が自衛隊の最高指揮官であるそうだが、それ以下、そうした仕組みのもとに自らもその下僚らも戦時下であれ裁きに掛ける場合もあるなんて意識を持っているだろうか?

 正面装備と継戦能力だけでは戦争は続かない。では司法が整えば戦争条規に従ったよい戦争としてそれが成り立つのだろうか?
 兵士がいなくて戦争になるか?常軌を逸したペン軍曹や「役立たず」クラーク伍長が戦場に居らずに法廷に立たされていては戦争にはならないだろう?もしも、ベテランのブラウンが生きていてくれたらこんな騒ぎになる前にうまく皆を諫めて宥めてくれてたかもしれない。
 彼らが戦場にあるためには、死にたくない事が一番の梃子なんだろうか?知恵と技術を積んでペン軍曹のように優れた兵士になってもこころの疲れは癒せない。「役立たず」であってもクラーク伍長のように、自分がわけの分からないようなものになるように追い込んで、それで怖さも忘れて敵に立ち向かえるならそれも自分にとっても軍にとっても結構でありがたいだろう。それで敵より先に殺して生き延びればホッとできるに違いない。
 そんな訳の分からない自分に到達するのに必要な悪事があるなら、それを嗜んででも生きたくなるだろうか?死ぬほど痛い思いを同僚の悲鳴から想像したらできるかもしれない。なにしろ死体袋に入るくらいしか南シナ海を越えようがないのだから。
 いっぽうエリクソンの軍曹より上の上官たちは「なるようにしかならない」と語る。黒人中尉は南部の民間人時代を振り返り、自分の子どもの出産を病院に人種の事で撥ね付けられ、よくあるように怒りに我を任せた結果牢屋入り、そのまま、よくあるように刑と引き換えの戦場暮らしを8年、生き延びてベトナムの中尉でいる。悪い流れのもとでの「なるようにしかならない」状況下でも必要悪を適宜嗜んで生きてきたという事だろう。だが、あるいは任務5週目の新兵の生死が掛った身内の問題をまるで合衆国内にいるかのように司直の手に委ね、多国間問題にまで発展させる事で、水面下の和平交渉を障害させ、国際世論を敵に回しする事でエリクソンが我が身の危機を一時的にでも回避させられる可能性が思い巡ったかも知れない。しかし、同時にそれはエリクソンがいかにも北欧風の白人にしか見えないからできる事だとも苦々しく感じただろう。

 監督は正面切って正論を吐くエリクソンを使って、これが人間の極限であり精髄であると見せつけたようでいて、反面で、作用には反作用を用意する事を忘れていない。
 雑誌にこの物語の元ネタが掲載されたのが'69年というから、最低そののち5年、ベトナムとの交渉をまとめ終えたニクソンが辞任したこの日まで訴えを通したエリクソンはどんな悪夢と闘ってきただろう。エリクソンの運命を切り替えた日々、おそらく既に刑を切り上げているだろうあの4人や上官たちのその後の事、上官たちが思い止まれと言ってくれた事をきっと今でも否定するのだろうが、その言葉が身に沁む日々には違いあるまい。妻は、もう5歳にはなっているだろう娘はどうしているのだろう。
 それでも'74年のその日、行きずりのベトナム人女学生と交わす言葉にはもう一つ別の作用、エリクソンにしか感知も消化もできない何かがあるのに違いない。あの件の結果、エリクソンは依然私服の戦場を引きずっているが、あの日司法を武器に現実に対して挑戦した事で大きな負担とともにエリクソンならではの世界を獲得しているとはいえるだろう。それを何とは告げないところ監督の人の悪さが潜んでいるのだが、単に損得勘定で割り切る姿勢でいるなら、監督の企図して見せた、到底あの真似とは無縁だろう。
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