YasujiOshiba

太陽の誘惑のYasujiOshibaのレビュー・感想・評価

太陽の誘惑(1960年製作の映画)
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YT. 23-113。フランコ・クリスタルディのヴィデス社の制作だから、カルディナーレがトップにクレジットされるし、最初にアップで映される。

舞台はイタリア中部の街。撮影はアスコリ・ピチェーノのようだ。アドリア海から少し内陸にはいった古都だが、映画のなかでは口にされない。時は1960年の現代。経済成長の続くイタリアの地方にある古くて因習的な街。

この閉塞感はフェリーニの青春群像に似ているけれど、もう少しお高くとまっている。というのも原題の「i delfini」(ドーファン〔イルカたち〕)とは、フランス語の「Dauphin」(ドーファン)のイタリア語で、言葉の上では「フランス国王の法定推定相続人(皇太子)の称号」だが、ここでは田舎町の裕福なブルジョワの子息たちのこと。

そんな主人公の「ドーファン」たちの世界を外から眺めていたフェードラ・サンティーニ(カルディナーレ)が、その仲間になってゆくという話。ただし彼女の声は例によってアドリアーナ・アスティ。群像劇の中心だけれど、まだまだひとりでスクリーンを背負うまではいかない。

なにしろアメリカからあはベッツィ・ブレアが伯爵夫人リータ、フランスからはジェラール・ブランが狂言回しの文学青年アンセルモ。そしてヴィデス社のおかかえ俳優トーマス・ミランが、カルディナーレの相手役として、フェラーリをぶっ飛ばす金持ちのバカ息子を演じてなかなかの印象を残す。クラウディアのもうひとりの相手役の医師マリオの依代は、舞台俳優のセルジョ・ファントーニ。

この作品は、言ってみれば、実質的な主演作となる翌年の『鞄を持った女』(1961)への準備作。ここでようやく、クラウディアを売り出す準備ができたということなのだろう。

映画のほうだけれど、最初にフェリーニを思い出すと言った。アドリア海というのもあるし、海岸のシーンもある。そして地方都市の閉塞感。しかし、フェリーニのラストはモラルドが旅立つのに対して、こちらの閉塞感はどこまでも閉塞感に終わる。

貴族は没落し、ブルジョワがのしあがる。文学青年アンセルモが耐えられないという父親は、友人のユダヤ人の財産だかを「盗んだ」と思われている。イタリアの戦後には、そういう問題もある。金持ちだったユダヤ人の財産で、戦後に金持ちになったという罪悪感。

しかし、そこから抜け出すわけには結局のところゆかないのだ。なにしろカルディナーレが演じるフェードラは、その名前をギリシャ語に遡ればパイドラ。「輝ける女」という名前の女神でありながら、道ならぬ恋によって身を崩してしまう。

この作品では、「ドーファン」たちの世界にあこがれながら、本当に愛した男とは結ばれず、結ばれた時には、もはや「ドーファン」の世界から抜け出せなくなっている。

1960年という時代が、新しい「ドーファン」たちの時代なのだとすれば、その時代に翻弄されるのがカルディナーレのフェードラというわけなのだろう。

『青春群像』のブルジョワ版だけど、カルディナーレを売り出したいクリスタルディの思惑を考えると、なかなか興味深い。ラストのどんでん返しは苦い後味。少し頭をつかわないとうまく消化できないところがある。でも、そう考えるとフェリーニのラストは凄い。パゾリーニが(たぶん)良い意味で「カトリック的」と呼んだものだけれど、すっと腑に落ちて、あとからじわっと苦さが効いてくる。
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