人類ほかほか計画

大アマゾンの半魚人の人類ほかほか計画のレビュー・感想・評価

大アマゾンの半魚人(1954年製作の映画)
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久々に見てて思い至ったけど、G作品こと『ゴジラ』の元ネタが『原子怪獣現わる』であるように、同時進行していた企画のS作品こと『獣人雪男』の元ネタはこれなんだな多分。
あと半魚人が威嚇するときに空中を引っ掻くように手を動かすシーンがあって、『ゴジラ対ヘドラ』とかのころのゴジラ=中島春雄の演技に影響を与えてるかもしれない。

「現代の目で見ると半魚人何もしてないのにかわいそう」「明らかに監督もそういうかわいそうな孤独な存在として怪物側に感情移入して撮ってる」的な感想や解説をよく聞くけど、そう言われてそうなのかなと思って見ると逆に意外と最初の殺人シーンから超凶悪凶暴で、こりゃあぶっ殺さないと……って思った……。
でもラストの主人公のおっさんの、散々撃たれて死にかけてる半魚人を「行かせてやれ」とか言うの傲慢すぎてキレそうになった……後味悪……。

ドキュメンタリータッチの見事な撮影、そのリアリズムに見合う圧巻の半魚人の着ぐるみ造形、人間業とは思えないスーツアクターの泳ぎ。

ここまで「美女と野獣」の構図を強調してモンスターとの対比としてヒロインを、添え物と言えないほどその存在感を全面に押し出した怪奇映画って『キングコング』以来なんじゃないか(いやあくまで主役はおっさんだけど)。サディスティックな欲望の対象の『サイコ』とは違う、恐怖や怪異を際立たせる対比的存在としてのヒロイン観がここにはあって、こっちこそが『エイリアン』とか『ハロウィン』とかを経て、80年代以降の戦うスラッシャーヒロインに繋がってくんじゃないか……知らんけど。

地球の誕生から見せていく科学教育映画じみた始まり方が良い。肺魚がいるならエラ人間(ギルマン)もいておかしくないという理屈がおもろい。

音楽が『ジョーズ』の元ネタなのも有名だけど他もめっちゃ色々『ジョーズ』だし、スピルバーグが参考にするのも頷けるようなめちゃくちゃうまい演出がある。例えばヒロインが川を泳いでる下でギルマンが泳ぎ回って付き纏ってるのを水中撮影で延々と撮ってるあのいちばん有名なシーンの続き、ヒロインが船に登った直後、船からクレーンで川に降ろされてる網が水中から何者か(ギルマンだけど)に引っ張られ、船がグラグラと揺れ、網を引き上げるとズタズタに破れていた! というくだり。ヒロインが泳いでるシーンまでは水中からギルマンを映しまくってたのに、ヒロインが船に上がった瞬間からは全くギルマンを映さない、水中を映さない。この感覚、この切り替えのセンス。水中のギルマンを見せたほうが怖いシーンと見せないほうが怖いシーン、その判断がまず的確であることに加え、二つのシーンが地続きというか一つのシーンと言ってもいいのに、並の監督なら見せるなら見せるで通す見せないなら見せないで通してしまうところを、見事に切り替える、これがセンス。これが映画の才能。

この映画は元々3D映画だけども、そもそも人間の目って二つあって常に立体視してるわけで、映像が平面なことってそもそもおかしいわけで、本来映像も立体視が標準であるべきだし、カメラも目と同じく二つで撮ることが当然であるべきだし、……っていうふうに今まで思ってたけど、この映画を普通の2DのDVDでぼーっと見てたら、まあどっちでもいいか、という気になった。というのは、人間の目は(脳は)常に錯覚するものなので2Dを見てても平面だなーなんて思わず立体を(というか普通にリアルの目で現実の光景を)見てる気に(つもりに)なるわけだし、逆に映画ではなく実際に現実の光景を見てる我々は本当に現実を立体視してるのか、っていう。確かに常に目は二つ使ってるけど、よっぽど距離感を測る必要性に迫られる瞬間以外でいちいち現実を立体視してるか? と言われたら別にしてない気がする。なので「3D映画はより両眼視に近い」ってことも言い切れないかな、と。というか両眼視自体が擬似立体視みたいなもんだし。コウモリのように、つまり3Dスキャンのように世界を見るわけでない限り、人間の見てる世界なんてそもそも平面じゃないか、と映画は教えてくれてるのではないか、みたいな。だから3D映画ってのはやっぱり見世物性にしか行き着かないのだな、と。まあ見世物性が映画という装置の本質ではあるので、その本質に立ち戻るという意味で3D映画に驚き楽しむという意義は映画にとってある。でも決してそれ以上になれない宿命のようなものがある。