ニューランド

胸より胸にのニューランドのレビュー・感想・評価

胸より胸に(1955年製作の映画)
3.5
 状況や事件示す真俯瞰Lショットや、鋭い移動やカッティング、また枠付けやO·Lの胸中シーン、更に激しい諍いやその前後·そこへ分け入る移動が入っても、俯瞰めや海岸で弾け舞う図連ね、があっても、家城にあっては受けての懐内のことではなく、また分析に叶うものではなく、先入観を持たず瞬間瞬間に向きあった、軌跡のように思える。それが2時間近く持続できるのが、観察者を越えた作家の力なのであり、「自分の幸せだけでは不完全で、周りをくるめての視野がないと」と何気に聞いた言葉の意味に気づいたラスト頃の主人公は、何時しか展開が大きく内的な時間を刻んでいて、それぞれの出自から抜け出せない者·複数の視野を持ってても自らは動こうとしない者らの間を、何巡にも潜ってて、独り立ちが許されるのが軋轢を生む地点迄来てるのが、現実であったを描き込んでる。単に未来礼賛·現状に屈伏などではなく。
 昨日まで一週間に観た映画は梅次の4本だったが、その懐ろで標準や型にならしてゆくのとは、家代の瞬間は誠実·清々しくとも、結果多角的で重さを付けてる流れはやはり別物と改めて分かる。その意味で、真にに繊細で大胆な作家であり、確たるスタイルを前に持ってくることはなく、90°変を中心とした角度変えやタイミングも、端正であるようで、結果ズレたり早まってる印象を受ける作家だ。思わぬ根に行き当たるもままある。それが現実というものにより近いからだろう? 正統ルーチンのスタイルに乗らずとも、じつに確かで緩みや弱さがない。只、キャラが知らず変わってる、時の経過と現状認識のズレの思い知りの重さが凄い。全ての描写(演技·美術セット)に、ケレンも無ければ縮まり出し控えもない。
 「(日本の)封建制からの解放遅れ」を思い知るべき鎌倉エリア出の気鋭の大学先生からの、「薄汚れてるようで清新のこり窺える」浅草のストリップ小屋の踊り子次代の娘(後、売れっ子になっても唯一人嘗ての先輩落ちぶれを見捨てない)への恋·婚約進め。戦争や上流な見限りで内は特に変わった戦後、今の浅草。「機を逃しては」の周り意見に従いも、究極で、戦禍や職についてのこっちの本質を理解·擁護出来ない、世界の違い思い知り(2人の兄分·姐分も、嘗て恋仲にあったが、男が保身で去っていた過去も)、女は幼な馴染みバンドマンに戻り·一緒になる。が、その妻の高利の会場次々の切売りに蟠り、米客誘いを撥ねつけた毅然にはスッとしたが不充分とのタクシー運転手の言葉で、離婚して親友の労働者仲間の一員の決意に至るが…。
 有馬は肢体といい役者根性といい、充実充満があまりに過ぎて、所謂周りの友らと違い夢のスターになりそこねたとも言うが、見てたかもしれないが個人的に名前をはっきり刻んだは、民芸再修行を経ての、テレビ『天と地と』の男を上回る女武者だった事の観客としての出会いも考えると、まさにこれも面目躍如の会心作かも知れない。只、妙に錦之助が演技者づいて、自身ばかりか東映時代劇を傾かせたのは、彼女の、サゼッションのせいだったかもわからない。
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