イホウジン

惑星ソラリスのイホウジンのレビュー・感想・評価

惑星ソラリス(1972年製作の映画)
4.0
この世界は誰かの記憶が生み出した虚構かもしれない。

確かに難解なストーリーだ。登場人物たちはあまり多くを語らず声を出しても観念的なセリフばかりで、物語の具体性は皆無と言ってもいいほどである。劇中の問題提起も明確な提示がなされないため、映画の解釈どころか見方すらも観客に委ねられている。ただ、その難しさは当然のことである。というのも、今作のテーマのひとつは「人間とはいかなる存在か?」という人類に永遠不滅の問いだからだ。
今作を読み解く上で欠かせないであろうキーワードのひとつは、“記憶”であろう。記憶の上でしか他者(特に物故者)は存在し得ない、という問題はしばしば諸芸術でも扱われるものだが、この映画ではそれのもう一歩先を行く。その記憶の中の他者は、記憶の主体とは別の客体になり得るだろうか?
人々の夢を実態化する能力を持つソラリスに滞在した主人公は、自らの記憶が作り出した「妻」と遭遇するわけだが、今作の設定で面白いのが、それは単なる幻影ではなく、記憶から分離した別様の何かであるということだ。つまり彼女は主人公のロボットではなく、あくまで独立した存在なのである。なので彼女は決して主人公に都合のいいばかりではなく、時に感情をあらわにし、時に自らのアイデンティティに悩み、時に妻とは異なる存在として主人公を愛する。自己と他者の関係性に関する議論は、しばしば分離か同一化かの二元論に終始しがちだが、今作ではその中間に人間存在を位置づけることができる可能性を感じられる。混ざり合いつつも自己ではない何かであり続ける「他者」という考え方は、そのまま自己とは何かという問いにも繋がりそうなものである。
そして主人公の記憶を巡る旅は、最後には母親の思い出にたどり着く。妻と入れ替わるように母が登場する様は、主人公の女性や母性へのコンプレックスの象徴であろう。彼の劇中の虚無感は、常に誰かに愛されたいという欲望に起因しているのかもしれない。そう考えるとラストの(衝撃的な)展開もどこか腑に落ちる。あれは、人々の願いをを具現化してくれるソラリスが、主人公の心の奥底の「私を狂わせた家族を赦したい」という願いを叶えた姿であるということだ。観客からしてみれば相当に後味の悪いラストであるが、あれこそが主人公が望む世界であり、それを否定することはできないだろう。というか、人間は誰しもが自分にとって都合のいい世界を願うものである以上、彼の身に起こったことは決して他人事ではないだろう。ハッピーエンドなんてそんなものである。

深い映画ではあるが、なかなかに忍耐力が求められる映画でもある。同時代の『2001年宇宙の旅』と比べてしまうとどうしてもエンタメ性に欠けているように感じるし、特撮もそれに比べれば上手くない。というかなぜSFであったのかという必然性すら薄い映画だ。意図的な長ったらしさではあるのだろうが、人にはおすすめしにくい映画である。

観る度に新しい発見がありそうな、ちょっと癖になりそうな映画だった。
イホウジン

イホウジン