レインウォッチャー

惑星ソラリスのレインウォッチャーのレビュー・感想・評価

惑星ソラリス(1972年製作の映画)
4.0
「わくソラ」って略せばほぼ「ゆるキャン」だよね。

まあ今作の敷居の高さったらない。(おや…?)
2時間半超の長尺に、タルコフスキーのネームバリュー(=オタクがうるさそう)。

枕詞として頻出である、『2001年宇宙の旅』に並ぶSF映画の〜云々にしても、そもそも『2001年』がよくわからんところに、わからんものでわからんものを喩えてくれるなと。
外国人観光客から「お好み焼きって何ですカ?」てエクスキューズミーされたとして、「もんじゃ焼きじゃないやつ」って答えるか?そーゆーとこやで。

見始めたら見始めたでさまざまなハードルが襲いかかってきて「スパコイナイノーチ(おやすみなさい)」となるのだけれど、ここはなんとか最大限楽しむ方法を問題ごとに提案したい。
女子の皆様も、いつ何時バーで偶然会った吉沢亮から「今夜オレと…わくソラ観てくれる?」って声をかけられないとも限らないわけで、備えあれば憂いなしとはこのことだ。

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◆問題①:圧倒的に華がない

『キングダム』とかに慣れている人には信じがたい話ではあるが、開始1時間ごろまでおっさんとハゲしか出てこない。あとなんだそのメロンの皮みたいなシャツ。正気か。
これはなかなか手強いが、2〜3日寺に籠るなどして、温水さんを見ても眼球から脳の間でライアン・ゴスリングに変換できるよう修行するしかなかろう。

さすれば、主人公の抱える苦悩を少し慮る余裕が出てくるだろう。
惑星ソラリスの「海」は全体が知的生命体のようで、近づく人物の精神を読み取ってその想いを具現化しようとするらしい。
主人公のもとには、そんなソラリスが生み出した、死別した妻(もったいないほど美人)のコピーが現れる。彼女と触れ合ううち、ある人が同じ「彼女」である定義とは何なのか…?といったことに思考が深まっていく。

妻のイメージはやがて記憶の中の母の像と混濁して、主人公の本当の望みに向き合うきっかけとなる。彼が真に望むものや悔いているものは何なのか、想像してみても良いだろう。

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◆問題②:そもそもSFっぽくない

SF=大宇宙!アドベンチャー!とは限らない。
この映画、確かに宇宙には行くのだけれど、ずーーーっと舞台は宇宙ステーションの中なのだ。その内部は70年代的なレトロフューチャー感、しかしソ連センスなので妙なズレがありシュール、それにやたら散らかっている(タルコフスキーという人はやたら部屋を散らかすのだ)

しかしこの「どこにも行けない閉塞感」こそが、主人公たちの内省を促す。
外に広がるのは永遠の暗黒、ステーションは絶海の孤島。環状に見える通路は思考の堂々巡りを誘い、前半で突然差し込まれる延々と続く東京のハイウェイとも繋がってくる。今作は、宇宙を外界ではなく内面に見たのだ。

そして、わたしたちは奇しくもよく似た体験をしているはず。すなわち「ステイホーム」だ。
コロナ禍が深刻化した当初、部屋で不安や孤独と戦った時期。あのときと劇中の境遇はごく近い。まさかの、おうちが宇宙に通じていたとは。

このリンクに気づけば、この映画はあなたの魂を映す鏡になってくれるかもしれない。

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◆問題③:謎で静かな映像の連続

開幕からいきなり、水面下に揺らめく水草が映し出される。その後も、ソラリスの「海」をはじめ水関連の映像差込がやたら多い。最後には部屋の中まで水浸しだ(繰り返しになるが、タルコさんはやたら部屋を散らかすのだ)

わたしは水がもつ不定形なイメージが心そのもののありように近いと思えて好きだし、どこか停滞した地球上の水辺と常に蠢くソラリスの海面は対照的で、はてどっちが人の生に近いのだろう?とか興味深かったりする。

もしそんな風にいちいち連想するのに疲れたら、「タルコフスキーはみずタイプのポケモン」とでも考えてみればどうだろうか。彼はきっと水辺から離れると死ぬのだ。だから入れたがる。

「フシギダネにボコボコにされる野生のタルコフスキー」とかを想像していれば2時間半くらい経つし、思わずフフっと笑ってしまおうものなら隣の吉沢亮もニッコリであろう。

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いかがだっただろうか。
要するに、「寺に行って、ステイホーム気分で、ポケモンをやれ」。これで『わくソラ』も恐るるに足らず、胸を張って「最後まで観たよ」とドヤれるはずだ。

タルコさんは「寝かせるつもりで作ったんだからね!」などと言ってたらしいけれど、それはなんとなくツンデレのような気もする。このめんどくさいマインドダイブ、一生に一度くらいは付き合ってあげようじゃあないか。