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デビルズ・ゾーンのninjiroのレビュー・感想・評価

デビルズ・ゾーン(1978年製作の映画)
2.8
マネキン野郎繁盛記

古来より、世の中には様々な種類の性的嗜好が溢れている。
近年ではインターネットの一般化がそれぞれ個別の嗜好を抜け目なく丁寧にフォローする市場形成の動きを加速し、今こうしている最中にも更なる専門化・細分化が繰り返されているところである。
便利な世の中になったもので、試しに軽い気持ちで「フェチ」という単語をwikipediaで引いてみると、その類型の多様さにまず驚く。
嘗て聞き覚えた「腋フェチ」や「脚フェチ」などは今や既に使い古された感すら漂う全く一般的なものであり、そこに並列する「手袋フェチ」、「おもらしフェチ」、「ヤンキーフェチ」、「盲腸の傷跡フェチ」などといった、流石に親身になって理解するには堪え性の要りそうなインパクト溢れる文字面を眺めるだけでも、その裏にある人類の弛まぬ性への探求心とその可能性に、最早頼もしさすら感じる。
しかし本来こうした嗜好、フェティシズムは世に公言する類のものではなく、多くの人にとっては普段はこっそりと心の中に仕舞い、幸運にもいざそうした事象に触れあう機会があった場合にのみ小さく、しかし力強く心の中でガッツポーズを取るに止める程度のものではないだろうか。
特に私のような恥じらいを知る古いタイプの日本人にとっては例え相手が如何に近しい間柄であろうと端的にその嗜好を真顔でカミングアウトすることはなかなかに難しいことであるし、もっと言えばそもそも産まれてこの方それを誰かに明らかにする必要性を感じたことはないのだが…。


舞台はアメリカの片田舎、ドライブを楽しむよそ者らしき若い男女5人のグループ。
なんだかんだで迷い込んだ怪しげな屋敷の中、彼らは血も凍るような恐怖を体験することとなる。
これだけで表現してしまえば何の面白みもないスラッシャー・ホラーのヴァリエーションだが、そこに付加されたとある要素とその演出の奇妙な「味」により、本作は他に例のない程の不気味さと異様な質感を持った作品として一部物好きに愛されることとなり、今日にまで伝えられている。
その要素とはズバリ「人形フェチ」である。
若者たちが迷い込む屋敷とは、見渡す限り他に建物一つ見当たらないド田舎で細々と営まれる蝋人形館。その佇まいは我が国が世界に誇る寂れた温泉地にかつて点在した秘宝館を軽々と凌駕する手作り感と魔境感を湛えている。
オーナーはスローソンと名乗る男、身の丈190cmを優に越える堂々たる体躯を持つ偉丈夫、演じるチャック・コナーズはそんな体躯に俗に言う「イイ顔」を併せ持った逸材。第一印象からその強めの顔面力が醸し出す威容に観る人誰もが内心抱くであろうそこはかとない疑念は、事態が進行し、幾ら彼がフランクに語り擦り寄って来たところで最早あたかも伝説の万年雪が如くしぶとく拭い去ることは出来ない。
これを意図的なキャスティングの妙と取るべきか、初歩的かつ致命的なミステイクと見るべきか、その結果は本編を観て確かめろ!と言っておく。
彼の厚意により館に招き入れられたところまでは良かったが、彼がコツコツと一代で収集・作成したと思しきマネキン群のその異様な頭数と不必要なリアルさに早速ドン引きする一行。
用事を済ませに外出するスローソン氏が館を去る際に残した「決してここから出ないように」との有難いアドバイスは、こうした作品にありがちな無軌道な若者特有の落ち着きの無さとあからさまな思慮の欠如のコンボによりものの数分も経たない内に反故にされ、止めときゃいいのに3人の女のうち1人のビッチがのうのうと忍び込んだ向いの母屋で待っていたのは、顔面を石膏の仮面で覆った不気味な怪人との気まずいエンカウンターであった。
怪人は最初の獲物を乗っけからその不思議な力を発揮し、膂力を伴わぬ理解不能の方法で屠る。
そして続く別のビッチやお兄さんをまたしても理解不能の力で捕縛し、予てより温存しておいた生贄と共に地下に監禁、大方の予想通り、彼らを生きたまま人形にしようと石膏をその顔面に塗りたくる。
怪人の正体に関しては、その何処かで見た様な如何にも堂々たる体躯から嫌でも真っ先に思い当たってしまう節はあるのだが、敢えて我々は怪人本人が語る「その思い当たる男の弟だ」という説を何とか信じてみようと試みる。仮にその通り彼が「弟」だったからといって、残念ながら現場は既にそれが何らかの言い逃れになるような状況にはないのだが。
劇中何度も繰り返される怪しい惨劇と合間の緩和の場、その双方に同時に存在しない人間がただ一人、確かにいることは馬鹿でも解る。仮に国営ギャンブルで本作の犯人探し問題が出たとするならば、私の本能は私の耳に囁くだろう、如何にその配当倍率が低かろうと生涯賃金を投げ打ってでも大きな賭けに出ろと。しかし映画というメディアには、その長い歴史の中でこれまで試行錯誤の末に勝ち得た物語上のテクニックというものがある。我々はそれを愚直に信じるしかない。それが「映画を観る」ということだからだ。

この怪人の顔を覆う仮面の持つ合理的意味は、正直言って最後まで語られない。
本作を腐す時に使われる「悪魔のいけにえ」との類似性を持ち出したところで、その本家「悪魔のいけにえ」本編ですら、レザーフェイスの肉仮面の合理的理由は語られていない。
それは理解不能の狂気として語られぬままに観る人の腹に自然と落ちるからである。
本作の場合、単純な不気味さの演出以外に考えられる意図は、「人形への同化欲求」である。
どうしても人形になりたい、どうしても人形で殺したい、人形の主観でなにかエグいことをしたい!
本作を観て感じる異物感の正体は、そうしたちょっと理解不能な「知らない誰か」のフェティシズムである。
本作の存在意義の全てはそうした欲求を作品として昇華する為のものであり、それが本来の意味で成ったかどうかはさて置き、その為に物事にすべからく在るべき必然性というものをかつて見たこともない程のダイナミックな投げ遣り感に乗せて完全に打っ遣っている処にこそ本作の無限の魅力がある、と言い切りたい。

やりたい事だけをやりたい放題やった後の、ラスト数分に見る辻褄合わせの為の目まぐるしい解釈の拡大と、完全にインフレ状態を起こして映画史上稀に見る程に気持ち悪い後味を残すに至る止め絵は個人的にはとても好きだが、本来禁忌として全ての映画製作者の心に留め置くべきものである。

監督は異色作「クロール・スペース」で知られる(?)デヴィッド・シュモーラー。
時系列的には本作の方が先に製作されているが、その「クロール…」に至っては更に解りやすく一般的フェティシズムの対象である「覗き」に踏み込んだ意欲作(笑)。
こうした口に出すのも憚られるレベルにまで偏り歪みまくったフェティシズムを堂々と、あまつさえ自身の名を添えた作品として永劫に残す覚悟たるや、まさに「剛の者」と言える。
現代に細々と生きる私のような、気取って自身の性的嗜好にすら触れられぬフニャフニャな軟弱者は漏れなくひれ伏すべき偶像である。

また本作にはこの公開の翌年「チャーリーズ・エンジェル」でブレイクする直前のタニア・ロバーツが所謂「殺され役」の一人として出演しているのだが、如何に当時無名だとは言え素人目にみても抜群に魅力的な彼女を差し置いて、主役の座に別のよくわからない女優に置いている辺りの脇の甘さにも注目。
そして手元にあるDVDのパッケージイラストでは出来ることなら時間よ遡れと言わんばかりに如何にもタニア・ロバーツが主役であるかのような、最早今となってはどうでもいいカモフラージュ(捏造)が施されている。
こうした往生際の悪さをも寧ろ美点として愛せるような余裕を持った大人にとっては、なかなかに魅力的な作品であるといえよう。
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