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西鶴一代女のnt708のネタバレレビュー・内容・結末

西鶴一代女(1952年製作の映画)
2.5

このレビューはネタバレを含みます

私はこのような救いのない悲劇が苦手だ。ただでさえ生き辛い時代に血も涙もない現実を突きつけたところで、観客は真っ先に拒否反応を示し、何ひとつ心に残さないと考えるからである。世の中は無常にして、無情。あのような世界では神や仏でさえ無力だ。溝口の世の中に対する諦念、ニヒリズムがスクリーンから滲み出ているがゆえに、何とも耐え難い137分だった。

しかし、本作は名画と言えば名画なのだろう。おそらく溝口は人々の生きる悲しみを描くのが大の得意で、画面から感じる色気はどの巨匠をも上回る。ゆえに純文学的な作品との相性が実に良いのだが、観客としての私はそういう映画が肌に合わないため、どうも彼の映画を好きになれない。

それにしても女性が落ちていくのは今も昔も変わらないのだとこういう映画を観るたびに感じさせられる。今だって良いとこのお嬢さんがふとしたきっかけで水商売に手を出して、人生がおかしくなってしまうなんて話は珍しくない。さらに、人生を狂わす原因がいつの時代も男にあると思うと何とも情けなくなってしまう。それだけでなく、本作で描かれた時代では身分格差や親子関係の問題が男女の問題と複雑に絡んでいたように、現代もまた別の問題が男女の問題と複雑に絡むことで人の一生を狂わせてしまうのだろう。

こういう苦しい現実から目をそらすことは決してあってはならないが、かといって現実を突きつけたところで多くの人々は拒絶するに違いない。だからこそ、少なくとも映画ではただ単に現実を突きつけるのではなく、何らかの希望を、それも誤魔化しの希望ではなく確かな希望を観客に見せたい。私はそう思う。
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