カラン

西鶴一代女のカランのレビュー・感想・評価

西鶴一代女(1952年製作の映画)
5.0
☆伝説

ワンシーン・ワンカットでは、ない。カメラを普通に切り替えているし、ディゾルブも数回やっている。ロングテイクは多いが、ワンシーン・ワンカットよりも、ごく普通にモンタージュをしている。だから素晴らしい。技法は大切だが、溺れたら傑作にならない。

☆鳥

I once had a girl
Or should I say she once had me
She showed me her room
Isn’t it good Norwegian wood?

And when I awoke I was alone
This bird had flown
So I lit a fire
Isn’t it good Norwegian wood?

これはジョン・レノンが書いた「ノルウェーの森」の歌詞である。昔、女の子をひっかけた。いや、彼女がぼくをひっかけたと言うべきだろうか。彼女は部屋を見せてくれた。(中略) その後目覚めてみると、ぼくだけだった。小鳥は消えていた。それでぼくは火をつけた。という不思議な出逢いの歌である。女が消える。

①『残菊物語』(1939)は芸道の映画であるので、歌舞伎の舞台が描かれる。これはライブを定点撮影したような映像であった。この種の撮影はファン以外には楽しくなく、最初から好きな人だけが楽しいのである。しかし、ここが驚くべき点なのだが、①の歌舞伎は極めて生々しいのである。正直、その点について①のレビューで書いたのであるが、一体どんな撮影、ないし演出の効果として仰天の生々しさを獲得することになったのか、未だに得心がいかない。

②ドライヤーの『裁かるゝジャンヌ』(1928)これを4回観たのだが、2~4回目は喪失感しかなかった。

③スピルバーグの『フェイブルマンズ』(2022) これも3回観たのだが、2回目と3回目は喪失感しかなかった。

①の生々しさは、冒頭の歌舞伎の舞台裏から舞台、および、名古屋での歌舞伎である。①はセットであるが、歌舞伎とそれ以外の落差はある。②と③はあまりに感動した初見時の感動を追い求めて何度か観直したのだが、なくなっていた。スクリーンがエネルギーの塊のようで、強烈な印象を受けたのだが、再見時には、ジョン・レノンの鳥のようにどこかに消えてしまった。

☆生々しさ

今日、オーディオの師匠のような人が我が家に来たので、本作の冒頭を観てもらった。街娼に堕ちて、ふらーっとしていて、街娼仲間と寺の渡り廊下の下で焚き火をする。ふらーっとお堂に入ると羅漢(悟りをひらいた聖人)の像が無数に並び、ディゾルブでかつての男たちの顔が浮かび上がるところまでだ。

その人は開口一番、すごいカメラだな、と。そう、女たちがうらびれた京都のどこかの寒空をそぞろ歩いており、下世話なへらず口をたたいているだけだ。しかし全員、ゴーストである。どうしてこうも素晴らしいのか、①同様に、分からない。①と違うのは、ほぼ全編で生々しいところ。

いきわかれの息子の籠に、冒頭から映っていた寂れた路傍で、気づく。自分は三味線で物乞いをしており、食べるものもなく、ぶっ倒れる寸前。息子は何人もの籠持ちや侍従に付き添われており、対比にめまいがする。ここで無音になる。スローモーションではないが、スローモーションになる。1/2くらいであろうか。心理的スローモーションである。この後、女は街娼になる。

日本映画史の最高峰であろう。


クライテリオンのBlu-rayで視聴。尋常ではない。幽玄の美。
カラン

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