三四郎

今ひとたびのの三四郎のレビュー・感想・評価

今ひとたびの(1947年製作の映画)
4.5
高峰三枝子からもらった時計を彼女自身と思っているがゆえに、映画冒頭シーンで時計の針を確かめた後、耳に時計をあてていたのかしら。彼女との約束を今ひとたび聴くために。

「この娘はいい子だぜ、ナイーブでしかも聡明だ。(略)ああゆう女は、我々インテリを熱中させる不思議な魅力を持ってるよ。ことにあの…目だ。冷たい眼差しの中に、火が燃えてるよぉ、情熱の火が」素敵な科白だ。

さて、37分52、3秒辺りの帽子をサッと脱ぐ、その時の高貴な怒りの目、このシーンなんて実にいいねぇ!
敬愛する人に構ってもらえず、いや、そんな単純なものではない。二人の間にある階級という壁、住む世界の違うもの同士。令嬢は悲しみと共に自尊心を傷つけられている。「なんですか、僕に用って」「用って別に…わたくし…ただ来たかったんですの。(略)」率直だなぁ。

戦前から描かれているブルジョア令嬢の好ましい部分は、素直、正直、率直、ここだ。自分に自信があるからこそ、勿論、彼女自身はそんなことに気づいていないのであるが、そういった行動、言動が取れるのである。そして、その大胆さ、明快なわかりやすさがメロドラマの効果を高めるのかもしれない。だからこのようなことがストレートに聞けるのである。軽蔑しているのか憎んでいるのか…「わたくしのことをどうお想いになってらっしゃるの?ねぇ、どう考えてらっしゃるの?聞かせて、おっしゃって、ねっ、おっしゃって、ね…」ガラス窓の向こうに降りしきる雷雨、停電は、龍崎の見事な心理描写である。

観客に文学の映画化だと悟られない、監督独自のタッチで描かれている作品こそ、優れた作品なのではなかろうか?文学の映画化に成功していると言えるのではなかろうか?

映像もすぐれて美しい。後半部におけるデートシーンは、霧にうっすらと白く包まれ、甘美なロマンチックな雰囲気を演出している。現代へと戻ってくる時計のシーンなんて実に良かった。こうゆう演出技巧が映画には必要かつ重要なのである。

高峰三枝子の絶頂期はこの頃だなぁ!!ため息が出るほど美しい。その高貴な気品ある美しさを贅沢に映し出し、かつ彼女の良さが輝くこの物語に乾杯!
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