あき

トゥルーマン・ショーのあきのレビュー・感想・評価

トゥルーマン・ショー(1998年製作の映画)
4.5
ジム・キャリーが映画に起用されまくってた頃は、あの顔芸がぼくにはちょっと苦手でほとんどオンタイムでは観てなかったんだけど、今になっていくつか見始めている。
この作品は、設定がわかって観ただけに、トゥルーマンの置かれた立場が可哀想過ぎて、泣かせる場面じゃないのに早い段階から悔し涙みたいのを禁じ得なかった。
いくら私生児であろうとひとりの人間を思いのままに操作できる権限など誰にもないのに、親や家族まですべてが偽物だとわかったときの彼の気持ちを慮るだけでやるせない。
でも、見方を変えれば、
彼は自分の意思に反してあの立場に置かれているけど、
facebookやInstagram、X等で自分のリア充を承認欲求でupしまくってる人たちは、自ら進んで自分自身をトゥルーマンにしていることに気付いてない。
どのお店で何を食べているか、誰と会っているかなど自分の私生活を自らの意思で晒し、その投稿や検索から分析され操作された広告から自らの行動をさらに誘導され、その行動もまたupすることで、それこそ“世界中の人が観ている“状態を自ら作り出している状況は、よく考えたらうすら寒い。
“久しぶり〜!でも投稿よく見てるから久しぶりの感じしないね!“ってよく聞く挨拶、ある意味この映画を観た後は気持ち悪いしかない。
さらにそのうえ、トゥルーマンは偽物の人間関係という悲劇の中にいたけど、フォロワー数の数の多さに自己満足するという、“本当の友達“でもなんでもない人たちに囲まれてる状況を自ら作り出しておきながらそこに満足感さえ抱いているという違和感。
まださらに付け加えるなら、作品中、CMを挟まない代わりに日常生活の中に商品の宣伝を潜り込ませる手法は、Instagramのタイアップ投稿そのもので、映画では不自然で苦笑いしてしまうシーンが、現実世界では多くの人が自ら進んで行っている。
トゥルーマンは映画の中では自分の置かれた世界から脱出しようともがく“悲劇の人“なのに、現実の人々は自ら進んでトゥルーマンになって、観られていることに満足している。
そして、あのエドハリスのポジションは、まさに隣国を自分の国と勝手に決め込んで迷うことなく侵略している某国の独裁者そのものでもあり、対するトゥルーマンにはまさにその人格さえも認められない侵略されてる側の市民の隠喩と見ることもできる。
劇場公開当時はどのような視点でこの作品が観られていたかわからないけど、公開時から四半世紀以上が経過し、コンプライアンスの意識や人権意識が大きく変化し、そして他国への侵略戦争行為がリアルタイムで進行している今、この作品の持つメッセージは、かなり深いものになっていると思った。
あき

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