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萌の朱雀のslowのレビュー・感想・評価

萌の朱雀(1997年製作の映画)
4.8
父と母が好んでよく聴いていたレコードの、ピアノの音色がわたしは好きで、何よりそれを家族で聴いている時の、あの優しい時間が大好きだった。村を離れて暫く、母との何気ない会話の中で、当時の思い出が風鈴のように鳴ることがある。
あんたがピアノを弾きたいって、せがんで泣いて。お父さんがおもちゃの鍵盤を買ってきてくれた時、本当嬉しそうに喜んで。その日は片時も離したがらんで、お風呂にまで持って入ろうとしたんよ。覚えとるけ?うちは叱ってしまったけど、お父さんは呆れながら好きにさせ、って。でも、うちらは嬉しかったんよ。みちるが喜んでくれて。それだけで良かったんよ。背を向けたまま嬉しそうに話す母を見つめながら、わたしは、うん、うんと、相槌をうっていた。わかっていた。あの頃のわたしにも、怒ってなかったことくらい。あの時もちょうど今と同じ。きっと同じ顔をしていた。断片的に思い出せる、家族の時間と、その風景と。わたしは多分、その音色というより、その優しさに触れたかったんだ。
あのレコードに良い思い出ばかりがあったわけじゃない。わたしも母も、そんな話はして来なかった。夢は幻となり、後には空洞だけが残されて、起きては眠り、眠っては起きるように、それを行ったり来たりする日々だった。瞬きでさえそうじゃないかと思えた。今はもう、家族を愛しながらも、あるところでは一生許せないのかもしれないと、先に言葉にできてしまうから、だから、わたしたちは話さないのかもしれない。それを想いと言ってしまうのはズルいことだろうか。わたしは昨夜、百景などと持て囃されても何とも思わない、ありふれた風景のひとつになり、かくれんぼする子供たちを見守る白い小さな花になる夢を見た。これは幻ではなく、郷愁と言うのだろうか。太陽の音が子供たちの声に応える。それは母の笑い声だった。
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