すえ

チャップリンの殺人狂時代のすえのレビュー・感想・評価

チャップリンの殺人狂時代(1947年製作の映画)
4.6
記録

他の作品に比べたら評価が少し低かったから、あまり期待せずに鑑賞。とんだ傑作だった…
今回はサスペンスチックな構成、明暗の使い方とか、音楽がそういう雰囲気を醸し出していて、ほんまに多才やなぁと。
終盤のシークエンスは語らずとも、観れば素晴らしさが分かる。社会が彼を殺人鬼にさせた、世界恐慌による大不況のお話。
今回は涙あり、笑いありの喜劇ではなく、楽しみはあるがシリアスな内容だった。痛烈で良かった。
「一人殺せば悪党で、百万人だと英雄だ。数が殺人を正当化する。」この有名なセリフの元がこの映画だったとは知らなかった、後世に語り継がれる言葉。
歳をとったチャップリンを見ると、少し悲しくなる。良い映画だった。

記録 2023,146本目 5/8 VHS
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 心優しい「街の灯」(1931年)のあとチャップリンは「モダン・タイムス」(1936年)を発表した。映画のトーキー進出に耐えられなかったチャップリンは「モダン・タイムス」と題したこのかわききった題名で現代の人間の不幸を、時計に追われ、機械に追われ、人間性を失った現代をトーキーという非映画的非芸術を憎みつつ制作した。そして皮肉にもラストにいたり、チャップリンは世界中どこにもない即席コトバで歌ったのであった。
 そしてもう主演作品はこれをもって終わり、このあとは監督に回り、メロドラマを撮ることをほのめかした。ところが、4年あとに「独裁者」(1940年)を発表したのであった。ヒットラーが進出しはじめたときである。アメリカはまだこのときは参戦前である。アメリカ軍部は「独裁者」にうろたえ、チャップリンをマークした。しかしこのあと、チャップリンは、自分は監督のみで悲劇を作ると言ったその言葉も忘れたかのように、『殺人狂時代』(1947年)をもってさらにきびしく世界に訴えたのであった。戦争による殺人はかくも許されていいのであろうか。子供でもそう考えることである。ところが、それが大手を振って行われているではないか。愛に純粋なチャップリンは、子供の心と同じ美しさで戦争を殺人として呪った。1人の人を殺せば、殺人そして死刑。ところが戦争で1,000人の人間を殺せば勲章ものだ。これでよいのであろうか。チャップリンは『殺人狂時代』(2時間4分)を1947年4月11日ニューヨークで封切った。軍部がたちまちチャップリンを調べだした。チャップリンに対しアメリカからの追放の手段をとりだした。
 この映画はアンリー・ベルドーの墓石から始まってゆく。その墓石の文字には1880-1937。ベルドーは57才ですでに死んでいる。そのベルドーが「私は1930年までの30年間、まじめな銀行員でした……」と言う死者の声から映画は始まってゆく。チャップリン映画のチャップリンはこれまで一度も死んではいないし、自殺もしていない。明日という日があるじゃないか。明日には再び太陽が昇り、鳥がさえずる、笑って元気に、希望を持って。チャップリンのこの「モダン・タイムス」のラストさえもが消え去って『殺人狂時代』は死者の声から始まった。チャップリン映画にはいまだかつてありえないファースト・シーンだった。原案はオーソン・ウェルズ。脚本はチャップリン。最初の題名は「レディー・キラー」。チャップリンはこの脚本に2年間をかけた。ベルドーはもはやチャップリン髭を落し、それに代わってフランス人らしい上品な、そしていくぶん“きざ”な髭をつけた。もはやどた靴もステッキもだぶだぶズボンもない。この映画の題名には「殺人喜劇」の副題が用意されている。チャップリンがかかる映画を作ることのこわさが身にしみる。チャップリンはエッサネイ映画の短編時代に「チャップリンの悔悟」(1916年)というのを撮っている。チャップリンの脚本・監督・主演である。ところでこの映画に牧師が登場して刑務所から出てきたばかりのチャップリンに聖書片手を説法した。チャップリンはありがたがって泣いた。ハンカチがないので、その牧師のあご髭で涙をふいた。ところが、あとチャップリンはその牧師に財布を盗まれていた。あの男は偽牧師の泥棒だった。このようなすごい悪党はアメリカ映画、とくにそのころのハリウッド映画には登場せぬ底知れぬ悪党だった。ところがイギリス生まれのチャップリンにはヒッチコックにも似た悪党のこわさが恐ろしく描かれて、それがこの『殺人狂時代』においてつぎつぎと富豪老女を殺害する恐怖描写の巧みさにヒッチコックを思わせるのであった。
 夫をいためつけて貯金をふやした女、金がありあまりながら金を握って使わぬ女、ベルドーは巧みに名を変え、自分を変えてそれらの女に近づき、殺しを重ねてゆく、その殺しのこわさが煙突の黒い煙、いったいあれは何を焼いているのであろうかと思わせたり、目的の夜、目的の老女がベットから彼を呼ぶ、そして彼はその寝室へ。かくてそのあくる朝、ベルドーはいつものとおり、それが習慣かのように2人分の食事を用意し、さて今朝は1人分でよかったんだと、表情も変えないでこの家の主人の女が食べるはずのナイフとフォークと皿をサッサとかたづけるシーン。そのあと女の財産の札束を早い手つき、慣れた手つき(もとは銀行員だったゆえに)で数えるチャップリン。いままでにかつてまだ見たことのないあのチャップリンのこの不気味。しかも各地の女をだまし、変身変名をもって、各地を駆けまわる。そのたびに列車の走る車輪が画面にクローズアップ。映画はたるむすきなくスリル、サスペンスを盛り上げながら、このベルドーがパリの実家に戻ればまさに良き父、良き夫、妻のモナと結婚して10年、その記念日には妻を喜ばせ、足の悪い妻をやさしく車椅子に乗せ、2人で庭の花を眺め、足もとに毛虫がはえば、そっとその毛虫を踏まぬようまたいで歩く。子供のピーターが猫の尻尾を引っぱると「暴力はいけないよ」とたしなめる。このベルドーが狙った女をボートに誘い、ロープで首をしめて殺そうとする恐怖。おかしき失敗のなかで爆笑させるが、チャップリンが「人を殺す」ことにかくもしんけんになったことはこれまで一度もなかった。もしもヒッチコックの「疑惑の影」や「見知らぬ乗客」を、かりにチャップリンが作ればどうであろうと同じイギリス人、そして同じ天才監督ゆえの興味が沸くのである。しかしチャップリンのこのどす黒い殺人映画の恐怖にチャップリンが何を説いているかがわかり、この映画のラストの死刑の宣告を受けたベルドーが「一人を殺せば死刑、百万人を殺せば英雄……」と言って死刑台にゆく。そのゆきがけに振り返ってこちら(私たちの方)を見た、なんとこわいラスト・シーンであることか。チャップリンの映画は、いつもラスト・シーンに“とどめ”を刺す。この映画もこのラスト・シーンを見た人たちは一生忘れまい。
 撮影ロリー・トザロー、アンリー・ベルドーの妻(マディ・コーレル)、狙われた女アナベラ(マーサ・レイ)、グロスネー夫人(イソベル・エルソム)、気むずかしい未亡人リディア(マーガレット・ホフマン)、アナベラの女中(アダ・メイ)、若い女(マリリン・ナッシュ)。そしてガーデン・パーティーのシーンでエキストラとしてエドナ・パーヴィアンスが出演。まさにいかにもこわいチャップリン映画だが、その“こわい”もっと奥は“戦争”というもの、これをチャップリンはこの作品に力説した。そしてやはりチャップリン映画の美しさは、毒薬のテストのために呼びこんだ娘を助けて彼女の手に接吻するシーン。やっぱりチャップリンは美しいシーンを忘れはしない。
(解説:淀川長治)
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