垂直落下式サミング

怪獣大戦争の垂直落下式サミングのレビュー・感想・評価

怪獣大戦争(1965年製作の映画)
4.1
衛星Xなる新惑星に調査にきた人間が、そこでX星人と遭遇するところから物語が始まる。彼らは思ったより友好的で、自分達を脅かす宇宙怪獣キングギドラを退治したいので、地球にいるゴジラとラドンをレンタルして同士討ちさせて退治したいという。しかし、X星人の真の目的は、厄介な地球怪獣を操作して手中に収め侵略兵器とすることにあり、地球の水資源を狙った侵略を謀ていたのだ!というおはなし。
異星人であっても攻撃してこないうちはこちらも手を出さず交渉を持ち掛けようとするリベラルな主張、しがない発明家の発明によりX星人をやっつける町工場魂、電子計算機にしたがって行動するX星人たちの哀しさなど、ドラマ部分は詰め込み過ぎず散漫過ぎない調度よさ。その軽妙な台詞のやりとりは、緊張感ないけれどそれがいい味をだしている。
特に敵のX星人の設定が興味深い。便利な生活をするために様々な道具を作ったのに、その結果ハイテク機器に支配されてしまったとは滑稽だが、それはこれから人類がたどろうとしている道の先にあるものなのだと、ちょっと怖い皮肉めいたディストピアイメージもほのめかす。すべてが合理化され、機械化され、システム化されれば、待っているのは人の血の通わないすべてが自動ドアのように味気ない世界なのだ。当時の脅威だった社会主義のメタファーなのだろうが、その不気味さは普遍である。
急に態度を変えて侵略を開始するX星人が自信満々なワケは、地球人に科学力の違いを見せつければすぐ降伏すると思っているからだ。負けるとわかっている戦いを意地になってうけるなどという発想そのものが考え付かないか、とうに捨て去ってしまったのだろう。これそこが数字を絶対とするハイテク文明の脆弱さだ。
しかし、そんな高次元の相手に人類はなぜ勝てたのか。人の強さとは何か。それは、仲間が何人死のうが太平洋戦争をやめなかった野蛮人たちの愚かさであり、集団に迎合し意思を持った群れとなることで他の生物を駆逐していったホモサピエンスの種としての強靭さに起因するものなんですよと、怪獣をみにきた子供たちに黒い本多猪四郎が囁くのである。
X星人の女性である波川と地球人グレンの悲恋のエピソードが、より敵宇宙人の悲劇性を際立たせる。文明の発達の代償として電子計算機に自らの意思決定すらも委ねてしまった同族に疑問を感じ、そこから抜け出そうともがく女性と、それを不憫に思って助けてあげようとする男の愛は美しいが、彼の優しさは彼女にとって情けですらなく、彼女は自己犠牲の精神にこそ解放を見出したのではないかと振り返ると、胸がズキズキしてしまう。
確かに、X星人はわざわざ小芝居をうったのが謎で、なぜ最初から水を狙って侵略してこなかったのか。ゴジラをX星まで運べるような科学力があるのなら、植民地になんかしなくても水をいくらでも密輸できたと思います。そういうことは考えだすとキリがない。比較的最近の『パシフィック・リム』や『バトルシップ』の宇宙人にも「お前らそこはダメなのか!?」って言いたくなることは多いので、そういうもんだと思ってください。
今回、怪獣たちは地球とX星の駆け引きに使われる程度で、ハッキリ言って物語の添え物だが、キングギドラを相手取って協力して戦うゴジラとラドンの一戦は見事に地球より重力の軽い惑星での戦いを表現しており、伝説的なシェー!のジャンプ力は、この理屈なくしてはあり得なかった!有名なメインテーマとともに防衛軍の火力が爆発するクライマックスも特撮の迫力もあいまって燃える。
円盤の光線で運ばれるゴジラが可愛いです。ガチャポンみたいです。