ニューランド

無防備都市のニューランドのレビュー・感想・評価

無防備都市(1945年製作の映画)
4.5
✔️🔸『無防備都市』(4.5) 及び🔸『カルプナー』(4.5)🔸『異人と霧』(3.9)▶️▶️

スコセッシ提唱の「 世界映画基金」等が発掘した、埋もれていた名画·重要作を、依頼を受けての事もある、実際の復元作業を膨大な労力を費やし実現達成する、代表的な存在の「チネチカ·ディ·ボローニャ」。そのお披露目も兼ねての、「チネマ·リトロバート映画祭」からの特集上映。この隠れた名画の発掘は、日本では売らんかなの企業論理が優先しまだまだ遅れてる。
終戦直後、(に限らず史上最も)世界を震撼させた映画と、より深く揺るがせる基盤を持っていたが、ルートの関係で影響力が国内に留まった、が引けを取らず偉大な映画、また来るべき革命を予言し抜いた震撼の芽を植え付けた先行の映画、世界を変えたか·或いは変わる世界を先取り著した作らが、今回の特集の中心をデンと占める。3本とも重要な紛れもない傑作だ。
実は、書こうとした時、『カルプナー』も『異人と霧』も作品名がリストになく、仕方なく似た題材·傾向の『無防備都市』を使った。翌日後者は登録されたが時既に遅し。
というわけで時間的にも仕事と被るし、『無防備都市』は書くスペースを借りるだけで観る予定になかった。が、今日奇跡的に仕事が早仕舞いとなり、ギリギリ開映に間に合いそうだとなる。観に行ったが、別に今更、という感じではあった。
戦争方針協力映画も含む、この作の前のこの作家のタッチは、極めて近代的·スマート·シャープでカラフルで、懸命にその入り口辺りで難渋してるデ·シーカに比べ、クラスが違う。ところがロッセリーニは『戦火のかなた』辺りから、煌びやかさを外し、素朴·不自由な、映画的メリハリのない作風に切り替える。更に人間の精神や魂の分野を日常を舞台として解析を推し進め、更に歴史の全体を磨かれた直感で掴んでくる。題材や表現のセンセーショナルと言う意味では、戦後混乱期·スタジオも完全復活前ということで、この作が最大作かも知れないが、タッチは柔軟シャープな初期の流れをかなり負っている。と思ってて、事実、顔と視界(角度)、切返しの(90°も含めた)締まりと角度、人の動き·扉出入りに尾いての縦·横め図の切替えタイミングと空間処理感覚、(縦·横)フォローや寄るや(視界含む)パン·ティルト·仰俯瞰角度·切返しからトゥショット·ワイプ·不穏から叙情へ音楽らの基本と逐次性マッチング、スポーツ追うフォローやパンのフリーで確かな揺れ、等余計に知られず堅実届きを当たり前に深さも伴い実現しているが、同時に映画的デクパージュの無化·解放の試みを塗り込め·引き出している。階段での出会いの高低の傾きある切返し+パン等を始め直接意味のない手持ちカットを増やしてくる、しかし、揺れ効果を狙ってるわけではなく、決まらない何かをそのままに残してる感、3人一挙逮捕など臨場感は後からということて、カメラをかなり解放してく、切口を与えつづける。また、愛人関係·家族や近隣、情報漏洩の線、心の拠り所と不安、ら人物画高性能がかなり複雑で、そこにスリリングな行動の追い·追われのサスペンスがタイト·効果的に生まれるが、同時にかなり癖のある俳優の歪み·希求演技が人間性主体に各種敷き詰められ、物語映画をはみ出し、同時に深める。逆に単純で含み少ない人物も、タイプとして、リアルに措かれている。役者のパーソナリティに任せるというより、場に嵌まり自己から呼吸するごとき、気を配り世話を焼きながら不安も離れない子持ち女、その家族関係のや喧しくも落ちつかなさ、戦争で結婚が遅れた恋人を起点の·党員·新婦ら多彩なメンバーの独軍へ抵抗解放組織の絆、そのメンバーとつき合いながら不安定に揺らぐ女ら~麻薬やゲシュタポと繋がる者との同性愛や貧困だけは拒み観に填まり·いら立ちと無気力で通報者へも、(精神の)家族の手応えも深め·抵抗運動を真に引き寄せ強めてもいる子供ら、支配が当然の優生思想から·表向き国際法に従いながら·他民族遊圧迫抹殺に平気な机上理論の摘めたいゲシュタポ(長官)と·それに体験的に否定的内部者の存在、人間性を卑屈なりにバイタリティ失わず保ってる伊市民。それらのあり方は、映画描写を効率的·説明的から、内に絞って存在の本質素朴·それをはみだすフレアを写し取ってく。そして、描写のつみあげ·コンテから来ない、前段ないような、いきなりの呆気ない、が其れが逆に胸に突き刺さりる、乱暴即物的な(不安定)カットら、の意図を超えた登場人物·誕生。検挙夫を追っての銃撃受けるパンやフォローブレや転がり捉え、内外ショックで崩おれ倒れる·女や男へのカメラが寄るか人が起きあがり近づくかの思わぬ衝動立体、拷問による肉体·顔へ圧や破壊の一瞬にしての表示と·それへの語りかけ切返し、そしてラストの椅子へ縛り·背後から射撃処刑の誇張ない一気的切返しカットら、劇映画が突き抜けられりる、余韻に甘えさせぬ衝撃と本物。作品として、妻になる女を失うも、義子との結び付きをバネに出来る男が生き残る部分は心地よい。
前期の名残り、次期のスタイル踏み出しの作というより、様々な映画可能性に予感として色めき、無意識めに無制限に試してる作か。幾分かは黄金(でも酷評)の50年代に直に繋がる気も。味わいや手応えが、限りなく度を越してる。言葉や観念もドラマを超えて直に突きつけられる。「自由の春、正義、希望へ。先人と同じく(拷問に)屈することはない」「我々は支配階級。口を割らずば、我々と同等だ。……自由? 我々は憎悪から殺戮をつくし、そして絶望に至る途だけか」。それらは安価な対立というより、表裏一体の世界への感覚だ。方向を絞った『~かなた』より、いい意味でより通俗的で柔軟であることも、魅力の証左か。絵柄も気張らず、暗めは暗めまま、室内やり取りは人の関係から、柔らかささえ幾らか持つ。それにしても、米国解放前、独占領下の伊は9ヶ月程度だったのか。肩をいからせぬ、宗教の敷き詰め·浮遊も心優しいし、この後の作でより突き詰められていくのだろう。
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『カルプナー』。『自転車泥棒』や『無防備都市』と近い年にインドでもそれらに劣らない、インドの現況を嘆きながら、イタリアの2作の切迫感より、より時代も地域も巨大なビジョンで拮抗する巨大世界を作ろうとした作品があった。1950年代前半の地域独特の舞踏に拘ったルノワールと、1940年代の急に声高になったチャップリンが合わさったような作だ。G·ハリスンの記録映画を作ってたスコセッシが、彼が音楽の薫陶を受けた高名な印人音楽家を取材してて、 舞踏家であり文化活動家でもある、彼の兄が唯一残した映画を探して欲しいと依頼を受けたところから、始まる。彼は、パブロワと共作し、ジョイスの絶賛を受けた、インドの称賛に留まらないビッグネームだった。
映画は彼がやった業績を、劇中劇(映画会社に結局厄介払いされる企画書)の壮大に社会改革に手をつけてく、見果てぬ夢として、描き抜こうとする。黒バックの大胆な合成OLやセットベースをどんどん入れ替え夢幻性を実体化したり·見慣れない巨大仮面異形取り付けの舞踏らどんな色合いの文化も受け入れ取り込みんでく懐ろ(「アフリカの踊り? アメリカはインドをアフリカと同じく隷属させんとしてる。それと同質をインドに見るな」)、世俗的にベタベタ手段構わず手放さない妻(愛人は確保し)と·表現通じての「我が身犠牲」厭わぬつながりの表現上パートナー対比(結婚へ向かうが、寧ろ内面の1体化へ)と、そのあからさまさがどぎつく入れ代わる逆転現象も含む男女はじめ·人間関係の多彩と可能性、ルノワールの『河』のラーダが幾重にも限りなくつながり様々なヴァリエーションを見せてく·や仰角や俯瞰めの柔らかい懐ろとキレをつけてのインド固有の地平からの沸き上がりと晴れやかさ(今のインド映画の時代とスピードにおもねったのとはまるで別)、そういったものが眼前で繰り広げられてく。
劇中劇の進行は、歌舞伎の様に見栄を切る顔癖の芸能好きの少年が父に疎まれるが、町に出ての学校らしきで、ひ弱だが強い絆の相棒を得て、その叔父だかの庇護も得て、舞踏でのしあがってゆき、その友は亡くなり、師か支配人にあたる者と対立·排してもゆくが、劇団を抱え国民的な大スターになってゆき、亡くなった友の妹だか(幼少時の因縁も後にわかる)の助力も更に世界を拡げてく。嫉妬深い妻の妨害もあるが、彼の意識は個人の英達に留まらない、文化·芸術のアカデミックな開陳、若い才能·学生を育てる基盤作り、インドの多民族の内紛を一体化した国家に纏まること~西部ベンガルも南部タミルも北部パンジャブのシーク教徒も対立を乗り越え·カースト制の弊害を葬り、更に世界に文化の門戸を開くことへ向かう。その為の育成·紹介·多分野絡みの、一大アカデミーをヒマラヤに創建する。多大の寄付や援助を、藩主や富裕層、国の機関に募る。貧しき者にだけにベースをと、仲間内の共産主義者は反目する。しかし、そうやって突き進む中、若い学生の覚醒意識から、よりラジカルな機運がその中から生まれてゆく。これを世界に向け拡大してくに、益々寄付が必要となり、受ける度合いを測る機械も据付け·動向を見据えながらの、多士を広範に招いての、自然に金が動く催しを、女性舞踏のひきつけ魔力の利用も厭わない。
しかし、そうする中でも、拝金主義の優勢化には、慎重にかつ強く、排除してく。そして、インドと世界の発展·正常化には、何より、立ち後れも目立つ、女性解放·その社会進出が成されねばならぬとす。
観てるときは、映画のプロデューサー揶揄なのか、スターリン批判なのか、頑丈なひげの太った軍服に似た着衣の仰向けに倒れたのが虚仮にされる事等、’50年代の作品かと思ってたが、’48年作だった。故にここには、ある程度見えてきたものの、煮詰め味を加えての活力·正統性保持というより、まだ見えて来ないものが大きいままの、正当に受け喜んでくれるなら、金持ち階級の寄付金を必要悪などとはしない、主義や作戦に係わらない、現実的に世界を進めてく、固まらない理想とビジョン·手触り手応えがまんま、自発的に闇雲も澄んで無意識の踏み固め·切り拓いてく、現在形がある。
あからさまなミニチュアセットや軽く大胆なイメージ処理、継ぎ足し入れ替えてくステージの発展盲目感覚、途切れない舞踏家のお高くとまるのではない、吹き出しや流れの活力と量、俯瞰や仰角だけでない·目高さでも角度を割る力も映画的整えとは別物、90º変や対応も·何段か寄りアップもスッキリはせずも、しっかり踏まれてく。カメラは(フォロー他)横へ流れ合わせたり·縦めに入り込んでくも流麗さよりもごった煮感。
劇中劇の更に中の文化·ショーの多彩紹介と、対立階級問題など無視の一体喜びのまとめ上げ、仮に劇中劇から現実からの夢とされても、くるまり拡げる力があり続け、観てるこちらのなにかを、ただ政治的意図·利用などなく、拡げてく作。舞台·映画·空想·掛け合い、をはみ出しが普通に 化している。人と大自然·科学の対峙が大袈裟でなくなってく。目覚めること、前進、拡がり、境を消すこと(ただ欧米との一体化は危険)。あか抜けない、あからさまで、泥臭い映画、ほんものの力と地割れからの産声を持つ。浅はかが見事な映画。ライトが当たりきらない·闇は包み覆うのではなく、際限ないものを産み出し続ける懐ろの様に柔らかく深い。吉田喜重の代表作、映画史上の最高作の1本『エロス+虐殺』の、自由と表現、民族と世界について、今も問いかけるをやめない巨大さに匹敵·相当する作である。
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インド独立前後を描き抜いた『カルプナー』に対し、ベイザイもイラン革命の何かの機運を予兆·予告するような壮大な作『異人と霧』を遺してる。只、歴史や寓話に引きづられた巨大さというより、いくつかの単純化幼児化したような図案による静的·規則的な(限られた数での繰返し主体の)札やカード遊びのような作、単純反復ルールがある切り絵細工だが、子供のオモチャ遊びが、繰返しが増幅脅威不安化して、壮大な予言·予告のような作品となる。子供染みた意匠と見えるが、民族的歴史·特異性に単純化·パターン化で長じてて、パゾリーニの神話世界の衣装·共同体に、極端な肩パットら漫画的容姿や決まり動きを加えた、繰返しの妄想か、脅威かで揺れ動く話となってく。白い霧や落ち着いた海·空や地の色が覆う、グレー·黒·白·肌色の世界で、淡くも鮮やかな青や赤が薄布を抜ける様に映える、朧ろも透明な美観が惹き付ける見事なトーン。ラスト·シーケンスだけは、『七人の侍』に『忍者武芸帳』を加えたような、土砂降りの中での泥塗れ排撃戦で、追っ手の裃のようなユニフォームの奇抜統一感·殺人マシンに対し、狙われる夫とその妻は武器で対すも、彼らを支える村人は、楽器状を突きだし·音を立て·纏まり動くも決して暴力や殺意には向かない。
海岸に流れついた小舟から、救い出された謎の男は、健康を回復し村人と働き友好を結び、住み着こうとするが、よそ者は不吉と拒まれる。優秀な漁師の夫を失って暗いままの未亡人に、他意意識せず本意でくっつき、クリアする。男は「奴ら」が来ると怯え続けるが、妄想と嗜める村人。しかし、内のひとりは遭難ではなく、村の期待のプレッシャーに逃げ出し、妻を連れに来た前夫だった。男はそれを倒し、妻にこちらの方には嘘はないと、惹き付け直す。そして、奴らが複数回、目的露わに数も増やしやって来る。村人もかなり失い·倒すが、続くだろうへ、村を離れ乗り込んでく瀕死の男。1人来て1人で去り、災厄ももたらした男を思う妻や村人ら。
縦の接写フォローや·横へ走り出すのへのフォローの回転してくパンや横移動、周り廻りの状態捉え、顔のCUの表情以上とその切返しら対応、生活·登場·不穏·音·自然の様式化·記号化の静かなる不気味·予兆は見かけ·あくまで単純なパターン繰返しの中から。喪を明けて再婚·夫に執着の女の衣装の明るい色化·表情の閉じ籠りから外へ向けての意志の表示の強靭化の変移が美しい。男の前世と、その醸し出す妄想の現実接近、それを越える絶えない暗殺集団の形変えての襲いくる形、「奴ら」は絶えないと乗り込んでくと執着してた村から消えてく男。妄想、気持ち悪い脅威の定型、多くは明かされず、不気味な繰返し侵食を、考え抜いてく、内容。奴らが来る海面や舟形もだが、その伝わりくる窓枠越しや·壁を黒くして抜き取られた部分越しらな·限定視界も多く使われてる。シャヒド=サレス、メールジュイ、ナデリ、マフマルバフ、キアロスタミら前の世代には興味あったが、彼らより年長のベイザイだが、知ったのが後の20世紀も終わりになってからなので、以降の関心薄れたイラン映画の1部のような認識だったが、今回はその脆弱さを逆手にとって充分にしぶといようで実態無邪気に屹立してるスケールがある。ズラウスキーの『シルバーグローブ』と自然に比較させられる。より子供染みてるが、それでも振りきれぬ恐怖の描きかたは本物だ。進行の単調·間抜けぶりを含めた怖さがある。傑作。人間の編んだ歴史の集積の、可笑しさと愚かさ、鵺のような恐怖。
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