素潜り旬

やさしい女の素潜り旬のレビュー・感想・評価

やさしい女(1969年製作の映画)
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『優しい女 自殺、ブランケットと男』

「女が自殺した直後、ブランケットが舞う」

あのブランケット。映画的演出のステレオタイプだとも言って良いあのブランケットはなんだったのか。

男に厚めの愛情表現を施され、若干モサっとしてしまった女は、家政婦さんの目からも離れ、一人になった時、まず棚からブランケットを取り出す。それでも落ち着かずといった様子でプラプラと、カメラは女の顔に寄り続ける。常にすでに表情を撮っているかのごとく、顔に、表情にというよりかは顔に寄っている。そして目を離した隙に、女はいなくなっている。

女はどこへ行ったのだろうか。まさか上へ飛んだのだろうか?とでも思ってしまうくらいに舞い上がったブランケット。風だけのせいだろうか。こう考えるとブランケットは自殺を表現するためだけの装置にしか、考えられない。

いや、そう考えて良いのだろう。自殺の装置だと、考えてしまって良いのだろう。だからこそ、わざわざ自殺する前に取りに行ったのだ。

遡っても女は、大体何かを羽織っている。それほど冷えるのだろうか、そういう服のセンスなのだろうか、いいや違う。この物語は自殺で始まり、自殺で終わる、つまり自殺で推進する物語なのだから、ブランケットは舞っていなければ始まらず、舞っていなければ終わらないのだ。女は常にすでに何かを羽織っていなければならない。自殺が不自然じゃないように。自殺の際にブランケットが舞っていておかしくないようにである。

もし、映画的演出のためだけにブランケットをわざわざ取りに行き、思いつめたように飛び降りて、ブランケットが舞ったとしたら、笑ってしまうだろう。そのための行為でしかないからだ。

しかし女は羽織っていた。それが重要なのだ。



「女が自殺する直前、家を出た男。なぜ家を出たのだろう」

主人に尽くす妻となると宣言してくれた女に厚めの愛情表現をしてちょっと昂ぶってしまった男は、旅行代理店(多分)に行った。急いで旅行のチケットを取りに行こうとしたのだろうか、この勢いで行ってしまえ(夫が言ったのだから)、と思ったのだろうか。いいや、行く場所はどこでもよかったのではないだろうか。とりあえず、家を出てみた。気が静まらないから。俺は今、滾っている。セックスしたいくらいだ、だができない。そうなった男は多分、出て行く。だってどうにもできない。この気分は。収まらない。そこで思いついたのではないか。旅行代理店に行くことを。そうだ、まだチケットを取っていなかった。どこへ行くかだって決めてなかった。ああ、そうだ、行こう。

そんな旦那の態度が気に入らなかった、愛想をつかした、こんな男の旦那でいることに絶望したから自殺したのなら、少し同情する。
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