Ricola

にがい米のRicolaのレビュー・感想・評価

にがい米(1948年製作の映画)
4.2
田舎の女性と都会の女性。
この二人の女性の性格や運命の対比的な描写と、二人の男性を巻き込んだ騒動が作品の中心である。
ネオレアリズモの系譜を踏襲しつつ、そこにメロドラマの要素を絡めた傑作である。 

シルヴァーナとフランチェスカという女性がお互いの立場を羨む。
それぞれの恋人との運命が絡み合うことで、運命の歯車は狂い出す。
田植えの短期労働に出発する列車にて、二人は出会う。
最初はシルヴァーナはフランチェスカに好意的であったが、フランチェスカが恋人のウォルターと盗んだ豪華な首飾りを目にすると、シルヴァーナの態度は一転する。


シルヴァーナは田舎の暮らししか知らないため、都会への憧れを抱いている。
都会から来た悪い男ウォルターやフランチェスカの都会の話に、シルヴァーナは前のめりで聞いている。
一方のフランチェスカは、ウォルターからやっと逃れることに安堵し、自分のこれまでの人生を立て直そうとしている。
この二人の女性の反対をいく展開が、なんとも皮肉に捉えられているのだ。

二人の女性を軸とした、労働者たちの描写が面白い。
例えば、田植えをしながら話していると、監督官の男性に怒られるので、労働歌を歌う素振りで不平をもらすというシーン。
この歌を歌うという身振りが、シルヴァーナと契約労働者たちvsフランチェスカ含むもぐりでやってきた非契約労働者たち、という構図をはっきりと浮かび上がらせる。
とうとう歌さえもうるさいと監督官に言われると、彼女たちの田植えの動きはピタッと止まる。監督官の男性が仁王立ちをしている足の間から、中腰の姿勢から立ち上がる彼女たちの様子がうかがえるショットに切り替わる。
この一瞬の沈黙を挟むと、女性たちは取っ組み合いの喧嘩を始める。
意外なアングルから人物たちの対立構造を見通したうえで、破茶滅茶な状況を示してくれる。

さらにこの二人の対比が見事に示されたシーンが、女性たちが雨の中での田植え作業を強行突破するシーンである。
シルヴァーナはウォルターと偶然居合わせて田植え周辺を歩いているため、彼女たちに加わっていない。
雨の中皆田植え作業を開始するが、途中で病弱の女性が苦しみのあまり叫ぶ。
皆彼女を救おうと取り囲むが、呆然とするばかりで何もできない。祈りを捧げるように歌い始める人が出てくる。
ザーザーと降り注ぐ雨音と叫ぶ女性の声と歌声が響き渡る状況は、あまりにも不毛な状況である。
またこのカオスに直面したシルヴァーナは、頭を抱えて叫ぶだけである。
そんな彼女に対してフランチェスカは、その苦しむ女性を冷静に抱きかかえて運び出す。彼女の勇敢な行動にはっとさせられた他の女性たちは、彼女の後ろに次々とついていく。
一方のシルヴァーナは、田んぼに一人で立ち尽くしたまま泣き叫び続ける。
かつてこの労働者たちを仕切っていたシルヴァーナの立場は、フランチェスカのそれと逆転してしまったことは明らかだろう。

並行に動くカメラが状況説明に一役買っているのも印象的だった。
例えば、電車の窓から皆が外を見つめている冒頭のシーン。その視線の先をカメラは追う。何かを見つめている人々が映り続けるが、やっとのことその視線を浴びている対象が明かされる。
それは踊るシルヴァーナであった。
また別のシーンでは、何か食べながら俯いて歩くフランチェスカを横から映しながら、彼女の進行方向に沿ってカメラも動く。その彼女の後ろに映る壁によじ登っている男性たちが、田植えの出稼ぎの女性たちをナンパしている様子がうかがえる。

シルヴァーナの上に雨や米が降り注ぐというモチーフが繰り返される。
この雨の中ひとり立ち尽くすシーン以外にも、米庫に移動したシルヴァーナの上にいるウォルターが、米をパラパラと降らせるシーンもある。
雨も米も人々にとって恵みの象徴であり、それは常にシルヴァーナに本当に大切なものを気づかせる、彼女の頭上に降り注ぐサインだったのかもしれない。

戦後の厳しい労働者、特に女性たちの状況をみずみずしくも残酷に描き出すなかで、女性たちの嫉妬と欲望が中核を担う物語である。
シルヴァーナとフランチェスカという人物像の対比を中心に構成されたショットの構図の美しさと、あまりに正直に指し示される人間の愚かさが、何とも切なく響き合うのだ。
Ricola

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