Jeffrey

12人の怒れる男のJeffreyのレビュー・感想・評価

12人の怒れる男(2007年製作の映画)
4.5
「12人の怒れる男」

〜最初に一言、大傑作。1957年にベルリン国際映画祭で金熊賞に輝いたオリジナルと肩を並べるレベルの法廷で真実と認められた証言を詳しく検討して、その矛盾を指摘し、疑問の余地を見出し、真相に迫ると言う見事な推理のプロセスを描ききったアメリカ映画史上の名作をロシア版で見事にチェチェン問題に転化し、プーチン= メドヴェージェフ政権下の下の国策にも合致したような内容で、現代ロシアの世相に密着した傑作である。この映画で監督ミハルコフの立場が浮き彫りになった最も危険で2時間40分の上映時間を絶え間なく緊張を維持させる演出力の凄さは拍手喝采ものである。最早これはリメイクではなく、真新しい映画そのものである〜

本作はニキータ・ミハルコフが2007年に監督した「十二人の怒れる男」を現代のロシアに舞台を置き換えてリメイクした作品で、当時観た時にオリジナルと台頭レベルに面白いと思わされた事を覚えており、この度持っていたDVDを再鑑賞したが面白い。残念ながら酷評もあるが、これはこれで非常に良く出来た作風だと思う。まず、ルメットの本家本物と同様のあらすじに、少年をチェチェン紛争の孤児に設定し、背景に現代ロシアが抱える社会問題を大きく取り入れた所が素晴らしい。正にロシアならではの問題点をこの法廷劇に入れてきたかと驚いた。本作はチェチェン問題を知ってるものには興味深く面白いだろう。それから上映時間が159分とおよそ3時間近くあるのにも関わらず長さを感じさせない。無論、罪に問われた少年を12人の陪審員が話し合う際に過去の個々の出来事を回想する場面でグダるも、監督の国内問題への提起が非常に巧みになされていて好きである。

1957年に登場した「十二人の怒れる男」は社会正義を謳いあげた法廷ドラマとしてアメリカ映画史に燦然と輝いているのはご存知の通りで、もともとはテレビ番組のドラマとして脚本レジナルド・ローズ、監督シドニー・ルメットのコンビが生み出したもので、緊迫感に溢れた展開と計算されつくした演出が、陪審員それぞれのキャラクター設定の妙と相まって、何よりも制作された時代の風潮が色濃く反映される構造になっている。1997年にウィリアム・フリードキンが「12人の怒れる男/評決の行方」として再びテレビ映画化するなど、(法定ドラマの原点)と言われる所以で、この1957年作品は世界中の法廷ドラマに多大な影響与えたのは言うまでもない。この法定ドラマの原点に新に挑んだのは、「機械じかけのピアノのための未完成の戯曲」で有名になり、その後に「黒い瞳」アカデミー賞外国語映画賞受賞した「太陽に灼かれて」や「シベリアの理髪師」、ベネチア国際映画祭最高賞金獅子賞受賞した「ウルガ」(傑作なのに国内ではVHSのまま)などで知られるロシア映画界の匠、ニキータ・ミハルコフで、ローズの脚本の骨子を忠実に活かしながらも、現代の社会の抱える価値観の混乱、多民族国家ならではの偏見を鋭く抉りだし、エンタテイメントの形の中に、21世紀ならではのドラマに仕上げている。

ちなみにベネチア国際映画祭で金獅子賞受賞したズビャギンシェフの「父、帰る」の脚本を手がけたウラジーミル・モイセエンコと監督とアレクサンドル・ノヴォトツキーの3人による脚本で作られている。12人の陪審員たちを状況に適応した成功者、怒りを貯める男、古くからのロシア的なモラルを懐かしむ者、あるいはチェチェンからの出身者、ユダヤ人等で民族的にも多彩にキャラクタライズし、ロシアの抱える問題点をさらけ出した手法をとっている様だ。コンパクトにまとめ上げたオリジナルとは一線を画し、あくまでもミハルコフの語り口で描かれている。陪審員たちの理論の最中に、フラッシュのように織り込まれる戦場シーンに彼の思いが込められているような気がする。そして最後にはオリジナルとは異なるまく引きが用意されていることにもこの映画の画期的な面を感じる。

やはりロシア映画の傑作のプロフィールを見ると必ず音楽を担当してるエドゥアルド・アルテミエフの名前をよく見かけるが、やはり彼の音楽は素晴らしい。それと個人的にDJと歌手をしているアレクセルイ・ゴルブノフが出演しているのはサプライズだった。この映画のイントロダクションを読む限り、ロシアそして日本も含めて経済至上主義にモラルが翻弄される国すべての現在が写し出されていると一文があったが、正にそうである。確か、この映画が公開される翌年は日本に裁判員制度を導入し始めたと思われる。様々な問題提起をする1本になった本作のタイミングは果たして偶然なのか…。正直、古典的な名作のリメイクはどれも最悪なのが多いが、この作品はオリジナル版に劣らずすばらしいと思う。残念ながら(人それぞれだが)この作品を駄作と言う人も結構いて個人的には悲しい面もあるがそれは仕方がないこと。さて、前置きはこの辺にして物語を説明していきたいと思う。



さて、物語はロシアのとある裁判所で、センセーショナルな殺人事件に結論を下す瞬間が近づいていた。被告人はチェチェンの少年、ロシア軍将校だった養父を殺害した罪で第一級殺人の罪に問われていた。検察は最高刑を求刑。有罪となれば一生、刑務所に拘束される運命だ。三日間にわたり審議も終了し、市民から選ばれた12人の陪審員による評決を待つばかりとなった。彼らは改装中の陪審員室代わりに指定された学校の体育館に通されて、全員一致の評決が出るまでの間、携帯電話を没収させられて幽閉される。バスケットボールのゴールや格子の嵌められたピアノといった設備に囲まれた陪審員たち。冷静にことを進めようとする男に促されて、12人の男たちは評決を下すためにテーブルを囲んだ。

審議中に聞いた隣人たちによる証言、現場に残された証拠品、さらには午後の予定が差し迫っている男たちの思惑もあって、当初は短時間の話し合いで有罪の結論が出ると思われた。乱暴なチェチェンの少年が世話になったロシア人の養父を惨殺したそのような図式で簡単に断罪しようとする空気があり、拳手による投票で、ほぼ有罪の結論に至ると思いきや、陪審員1番がおずおずと有罪に同意できないと言い出した。陪審員1番は自信なさげに結論を出すには早すぎるのではないかと疑問を呈し、手を挙げて終わりでいいのかと、男たちに問いただした。話し合うために、再度投票を行うと提案。その結果、無実を主張するのが自分1人であったなら有罪に同意すると言い出した。無記名での投票の結果、無実票が2票に増える。新たに無実票を投じたのは、穏やかな表情を浮かべる陪審員4番だった。

ユダヤ人特有の美徳と思慮深さで考え直したと前置きし、裁判中の弁護士に疑問を湧いたと語る。被告についた弁護士にやる気がなかったと主張した。この転向をきっかけに、陪審員たちは事件を吟味する中で、次々と自分の過去や経験を語り出し、裁判にのめり込んでいく…とがっつり説明するとこんな感じで、オリジナル版のヘンリー・フォンダが演じた主役のように確固たる信念を持った存在ではないが、それでも良心を持ち合わせた陪審員の意義から圧倒的な有罪支援者の11人が議論を尽くし、次第にそれぞれの生活、偏見、予見が浮き彫りになっていく様は非常に良く、もはやオリジナル作品の時代のように、社会正義を鼓舞するほど純粋もしくは無邪気なさまではなくなっているも、希望を失っていない脚本、監督の姿勢が垣間見れてよかった。

表面的な自由主義体制になったあげく、経済至上の風潮が跋扈するあまりモラルを失ってしまったロシアの人々の混乱、失意が、緊迫のドラマに貫かれている。この作品は被告とされたチェチェン人の少年の夢がモノクロームの映像で美しく写し出される中にかつて平和に母と暮らしていた日々が観客に風景として与えられ、冒頭から考えさせる時間を与えてくれる。考えさせてくれる作品で、サントの「エレファント」を思い出す。それが戦火によって、家族を始め全てが失われてしまった日々を映しているのだ。アメリカからロシアへと舞台を移した12人の陪審員が殺人事件の裁判について議論すると言うのは、本来米国に古くから導入されている制度であり、一方、ロシアの場合は、旧ソ連時代から市民の裁判への参加の形式として参審制度と言うものがあったが、最近では新たに陪審制度も導入されていて、この映画の前提自体は現実離れしたものでは無いとの事。

ところが、その手続きの詳細を見ると、現実の陪審制度からはずれた点も多く(そもそもロシアの場合、陪審員の審議にかけられるのは、もっと凶悪な性格の殺人事件の場合に限られる)。こういった点はアメリカの原作の設定に沿って物語を組み立てたため、ロシアの現実の司法制度から若干(映画的)に逸脱したと言えるのかもしれないと確か東京大学教授でロシア東欧文学者の沼野充義氏が言っていたことを思い出す。この映画の面白いところは1950年代のアメリカから半世紀以上経った現在のロシアに全てを移し変えていて、米国版は汗をかく男たちを強調としており、夏が舞台だったがロシアではもちろん凍てつく冬が季節の舞台で、そことの対称が面白いのと社会的、人種的偏見は、見事に現代のロシアの問題に置き換えられていて監督の目指したものが、この映画からうかがえる。被告の少年は、ルメット作品では貧しいスラム街出身の少年であるに対して、本作ではチェチェン人の少年になっている。

米国版の少年も英語があやふやな移民に対する差別発言が伺えたが、本作ではそれ以上に他民族性を直接反映しているため、強烈な差別意識が見て取れる。これはものすごいこの映画の特徴を出しており、ロシアと言う国を知るのにとても良い要素だと思った。それにアメリカの場合は1つの言語で終わるにもかかわらず、ロシア版は様々な言語が飛び出し、2時間40分もの時間をこれほどの緊張感で貫くのはかなり難しいと思われるため、監督の力量がうかがえる。基本的に陪審員12人の男たちの身の上話に対して若干の批判的な意見があるようだが、それらがこの映画の重要なポイントの1つで、陪審の方向性が徐々に変わっていく大切なところである。それを素晴らしい役者12人が演技合戦するのだから最高としか言いようがない。まさに天才的な1本である。これは正直、演劇を完璧にこなしている一流を揃えない限り不可能な芝居だったと思う。これを見るだけでも演劇文化の底知れない深さにロシア映画が支えられているのもわかるはずだ。

余談だが、映画名はロシア版では単なる12であり、怒れる男は省略されており、12と言うのは、キリストの使徒たちの数でもあるが、ロシア革命直後の世相を描いたアレクサンドル・ブロークの叙事詩のタイトルでもあり、ロシア人ならば誰でも知っているこの国民的詩篇のタイトルをあえて映画につけたのも監督の野心がうかがえると評価されたようだ。チェチェン人は、北カフカス(コーカサス)のイスラム教を信仰する先住民族の1つで、彼らの地は19世紀後半に長い戦争を経てロシア帝国に組み込まれて20世紀にはソ連の自治州ないし自治共和国と言う位置づけになったのは歴史を知っている人なら分かることだが、チェチェン戦争とロシアの抱える社会問題をこの映画は強烈に出している。

少しばかり歴史的な話をすると、ソ連解体後の独立を求めるチェチェン人の運動が活発になって、独立を阻止しようとするロシアとの間で1994年以降、第二次にわたって戦争になったのだ(このような情勢を描いた映画でボドロフのコーカサスの虜と言う作品がある)。第一次チェチェン戦争の時の大統領はエリツィン(この大統領の時に北方領土を1番返してもらえる率が高かったと個人的には思う)第二次の時はプーチンで、どちらの大統領も強いロシアを目指すロシアの指導者として強固な姿勢を示し、チェチェン独立派に対して譲る姿勢は全く見せなかったのだ。現在では大規模な戦争は一応終わり、チェチェン共和国(現在は法的にはロシア連邦構成主体の1つ)には親ロ的政権が樹立されたが、戦争が完全に終結したわけではないと言う…。戦争がチェチェン人に残した傷跡はあまりに大きく、多くの一般市民も犠牲になり、チェチェン人側の抵抗運動はいまだに根強く続いているそうだ。

チェチェン独立派が関与したとされる過去のテロ事件も少なくなく(そのー部ではでっち上げともいわれるが)、そのためチェチェン人は恐ろしいテロリストだと言う偏見もロシアの庶民の間に広まったそうだ。本作はそのようなチェチェン問題をバックグラウンドに撮影されており、ある意味では極めて生臭い作品として沼野氏はこの映画を評価していた。実際に陪審員の1人は非常に差別語を使っていた。映画を見ればわかるが野蛮人などとあまりにも酷くて耐え難い。しかもカフカス出身者全般やユダヤ人にまでも拡大した差別用語を言い出す始末である。ところがこの12人にはカフカス出身の外科医もいればユダヤ人の陪審員もいるため、反発を食ってしまうところがまた面白いのだ。ちなみにこのカフカスと言うのは古い文明を持つ文明的豊かな地域で、かなり昔にグルジア映画の傑作として紹介した「放浪の画家ピロスマニ」と言う作品のピロスマニもグルジアで活動していた素朴画家であり、天才的映画監督セルゲイ・パラジャーノフ(アルメニア)などを生み出している(ざくろの色は彼の最高傑作だと思う)。

それから大詩人ショタ・ルスタヴェリ(中世グルジア)も出ている。それからロシアにはユダヤ系の人々も少なくなく、特に知識人や芸術家や文学者などの比率が高く、20世紀ロシア文化に対するユダヤ人の貢献は決して過小評価できないとされているようだ。監督の映画は、このような多民族国家ロシアを描き出す鮮やかな縮図となっていると語れるのではないだろうか。ルメット作品と違うミハルコフ版のもう一つの特徴は、被告の少年の過去により多くの光が当てられ、チェチェンでの生活や両親の惨殺といった過去がフラッシュバックの形で何度も描かれていると言う点とされている。それにしても強硬なチェチェン政策を推し進めてきたプーチン大統領がこの映画を見たらどのような反応するのか見てみたいものだ。あまりにもきわどい作品である。そんで調べてみたら実際に彼はこの映画を見ていて、激賞し、監督をチェチェン及びイングシーの大統領とともにモスクワ郊外の公邸に招いて労をねぎらったと言う。おそらく今のロシアにとっては、チェチェン問題はもはやなすすべがなく、むしろ強いロシアが積極的に解決に乗り出していく姿勢を正すべき時期に差し掛かっているのかもしれないと言う…。


実際にチェチェン戦争について大胆に真実を伝えようとした女性ジャーナリスト、ポリトコフスカヤは2006年にモスクワで凶弾に倒れている(おそらく暗殺と思われるが、真相は未だに不明だそうだ)。確か数年前にも有機リン系の神経剤で、簡単に言うと、すごく強い農薬でサリンもVXも同じ有機リン系だが、ノビチョクは安全に持ち運びできるように開発された「第4世代」の化学兵器を使われたと見なされている反体制派のアレクセイ・ナワリヌイ氏の事件も記憶に新しいだろう。因みにアンナ・ステパーノヴナ・ポリトコフスカヤは自宅アパートのエレベーターで射殺されている。プーチン大統領は2000年から2008年まで就任しており、その後にドミートリー・メドヴェージェフに一度就任させて、2012年から現在に至るまでロシアの権力者として居座っているのだ。だからちょうど年表的にはこの映画が作成され公開されてる時はプーチンは元大統領になっていたと思う。

確かミハルコフはプーチン大統領の第二期が終わりに近づいた時、文化人たちの署名を集め、プーチンに第三期も引き続き大統領にとどまるよう公開のお願いをしていて、第三期連続して大統領を務める事は、現行の憲法では禁止されているのをシカトしてまで彼に肩入れしているのだ。だからこの映画でも養父の役割を果たすことになるロシア人将校はプーチンのファーストネームであるウラジミールの愛称形の"ヴォラージャおじさん"と呼ばれているのだ。これは誰が偶然と言えるだろうか。確信犯である。その他にもを暗示的な文面はあった(ネタバレになるためこれ以上は言わないか)。先ほどプーチンがこの作品を見て激賞したと言う理由の1つには、ソ連崩壊後のロシアで、マフィアがはびこり、不法の経済活動が暴力的に推し進められ、貧富の差が拡大する一方で、庶民が犠牲になってきた事例があり、今やプーチン=メドベージェフ政権は、強い政府の下に秩序を回復し、法に従う社会を目指すことを言い、犯罪的な経済活動を批判する映画のプロットは、このような国策にも合致してしまうのだ。


この映画には人種を始めとする出身地など多くの問題点があり、職業による差別と経済格差、親子の断絶と世代間の不信、少年犯罪の増加などが入り込み、戦争と言う悲劇的要素の色合いが非常に強く、ロシア連邦南端北カフカスに位置するチェチェン共和国での戦争のむごたらしさがこの映画には映されるし、多くの死体が土砂降りの中で写し出されて横を人間の手首をくわえた犬が通り掛かってくる描写などを見ると、あまりにも惨たらしいというか残酷絵図になっている。1957年のヘンリー・フォンダ主演の方では、ヒスパニックの被告少年だったが、ロシア版ではチェチェン人になっている。そしてこの映画は皮肉とも言える…というか矛盾に満ちているのだ。この矛盾を話すと色々とネタバレになってしまうため言えないところが残念だが、マフィアがらみの陰謀、抹殺の計画、犯罪組織が悪事を持って仕組んだ結果、有罪でも死刑はなく終身刑と言う刑法、無罪が直接死を招き、このような言葉から察してほしいのだが、人の命が天秤にかけられた矛盾を12人の陪審員たちはどのように解決するのか、これこそ最後まで予断を許さない映画と言えるのではないだろうか。


これは本作を見た国際ジャーナリストの常岡浩介氏がいっていたことなのだが、2004年9月にロシア南部北オセチアで起きたベスラン学校占拠事件や2002年10月のモスクワ劇場占拠事件などがあり、これら事件では、チェチェンの武装勢力とされる集団が子供を含む一般市民を巻き添えに多数の死傷者を出し、テレビの電波に乗って現場の悲惨な映像が世界中に流れたそうだ。ところが日本では伝えられなかったみたいで、所々にチェチェン戦争に関してメディアが詳細を伝えないと言うことがあるようだ。欧米でも同様で、米国4大ネットのニュースを全てモニターして分析している国境なき医師団はチェチェン戦争を8年連続で世界で最も報じられなかった10の人道危機に選んでいるようだ。そして、同じ報じられないと言う問題は当のロシアでも全く同じでそれ以上に深刻かもしれない。ロシアではプーチンが実権を握った99年以来、報道機関への当局の規制が極端になり、政府に批判的な報道を行うメディアはほとんどが閉鎖されたり、政府系企業に買収されてしまっているそうだ。

世界的に有名な先ほども話したが、ポリトコフスカヤ女史を筆頭に多数のジャーナリストが殺されている。チェチェン戦争が世界に伝えられない訳は、ロシアによる報道規制と言論弾圧が内外で非常にうまくいってるから、と言う事情があるようだ。ちなみにチェチェンの少年がプレゼントされたナイフが重要な小道具として役割を果たしているのだが、チェチェンでは1人前の男は剣か銃を携帯しているのが伝統だから、武器を買い求めることをしていたのだ。さて、ここでこの作品の印象的な部分を話していきたいと思う。やはり冒頭のモノクロームの映像は圧倒的に美しいのは先ほども話したが、この映画が順撮りで撮影されており、陪審員1番に扮した役者による10分間のモノローグを、ワイドショットのワンシーンで撮影しているのが素晴らしかった。緊張感与える手法を選択している。

この作品は60年代の映画を現代の観客の注意を惹きつけるようにうまく構成されており、その中には様々な見解やテーマが含まれていて、暗示がきちんとある。特に面白かったのがセルゲイ・ガルマッシュ(1番偉そうに怒鳴り散らかしてたおじさん)演じた陪審員が、〇〇で恐怖を感じ驚いたところだったり、1日のうちに4回も意見をコロコロと変えてしまい、前の意見をすっかり忘れてしまう陪審員のシーンなどは印象的だった。因みに陪審員一番のセルゲイ・マコヴェツキイが演じたのが日本とロシアの合弁会社のCEOで、あえて日本を出してきたのは監督が黒澤明など日本映画に精通しており日本が好きだからなのだろうか(DVDの特典では黒澤明の話もしている)。

それにしても12人の陪審員の職業などがみんな見事にバラバラで面白い。大学の学部長だったり、業界の裏ビジネスにつうじた建築家、現在のロシアの体制に批判的で、論理的で理屈っぽい人や、墓地の管理人責任者で愛国心は強いが現体制には批判的な男だったり、タクシードライバーの外国人嫌いの差別主義者だったり、先ほども言った日本とロシアの合弁会社のCEOや体に退役した証。将校で、陪審員長の男だったり、ユダヤ人で弁護士の退屈そうな男、カフカス出身の外科医、素朴な人柄だが、人の意見を信じやすい男、母親が経営するテレビ会社の取締役、ひょうきん者の旅芸人で半分ユダヤ人の血を引く男など多種多様である。有罪か無罪かを決めるときに、1人だけが無罪に手を挙げるのだが、その後の体育館での空気感がものすごい緊張に満ちている。それから体育館で12人を捉えるカメラワークがやや長回しで、特徴的でユーモアも入っている。

ほぼクライマックスの時のミハルコフの涙の演技がすごく印象的に残り、彼の言うセリフの中ですごく頭に残ったみんなで輪になって話をしても、話をしただけでその内容がほったらかしにされると言うのを体育館の排水溝の修理止まりを引き合いに話をする場面は印象的で、最後の民族音楽で踊るチェチェン人の少年のフラッシュバック含む刑務所内の踊りの描写は圧倒的な余韻を残す。そして救いのある小さな鳥(雀)が平和の象徴の白い鳩のように見える雪の中を飛び立つシーンも脳裏に焼きつく。だが、監督はこんなきれいな終わり方をさせずに、クライマックスに犬が…の描写を残す。長々と話したが、まだ未見の方はオススメである。
Jeffrey

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