きゃんちょめ

源氏物語 浮舟のきゃんちょめのレビュー・感想・評価

源氏物語 浮舟(1957年製作の映画)
3.9
『おぼつかな、誰に問はまし、いかにして、はじめもはても、知らぬ我が身ぞ。答ふべき人もなし。』

そもそも源氏物語とはなにか。まず天皇は桐壺帝→朱雀帝→冷泉帝→今上帝の時代。光源氏の人生は25歳までは地位が下がり続け、最終的には全ての身分が剥奪されどん底になり、39歳までは地位が昇り続け、頂点にたどり着いてからはむしろ老いがやってくる。幸せかというとそうでもない。なぜなら、権力と魅力は反比例するから。光源氏はあだ名であって本名は分からないが、おそらく光源氏のモデルは天智天皇の息子で頭が良く目が光る伝説があり壬申の乱で死んだ大友皇子だろうと言われる。紫の上は藤壺女御の姪で親王の娘である。藤壺は一見かよわそうだが、実はしたたかな女。光源氏の父は桐壺帝で母は桐壺更衣。光源氏のこの頃の正妻は12歳のときに結婚した葵の上で、彼女は東宮の未亡人六条御息所の物の怪に苦しむ。六条御息所はセンス抜群だが車争いでプライドを傷つけられた件を執念深く憎んでいたのだ。7歳のとき光源氏は父に愛されながら、かつ同時に、臣籍降下させられる。なぜなら光源氏は母桐壺の更衣が3歳で死んでいるため外戚権力が無さ過ぎて天皇になれないからである。整理しておくと、桐壺の更衣にそっくりなのが藤壺の女御で、それにそっくりなのが紫の上である。紫の上がいるのにのちに正妻として嫁いでくるのが女三の宮だ。なぜ紫の上が正妻になれないかというと、紫の上は政略結婚ではなく拉致監禁恋愛結婚だからである。しかも若過ぎる新妻女三の宮は朱雀院の娘だから身分が紫の上より高い。社会的に、光源氏には正妻がいないことになっては困るというのもあって、光源氏と18年も連れ添っている紫の上をよそに"浮世の義理"と光源氏の欲で連れてこられた。光源氏の兄は病弱な朱雀院で、出家を望んでいるんだが気がかりなのが最愛の娘、女三の宮の将来だった。葵の上と桐壺帝が相次いで亡くなった後、25歳のとき朱雀帝の妃である朧月夜との密会現場を目撃され光源氏は須磨に流される。須磨の嵐を抜け出して隣の明石へ。そこで出会った受領で出家した明石の入道の娘が明石の君である。女の子が生まれると、外戚システムの中で女の子というカードを産んだ明石の君が強くなり過ぎては紫の上に申し訳ないので女の子を明石の君から取り上げて、未だ子のいない紫の上に育てさせる。藤壺女御との不義密通の子である冷泉帝が桐壺帝が父ではないことを知らされ、実父光源氏が呼び戻されて太政大臣になり、その後明石の君が入内。39歳のときに退位した天皇と同じ位『准太上天皇』をもらう。不器用で一途で読書家で紫式部自身の暗い面の投影なのが末摘花。可憐な夕顔、空蝉、花散里は単発でしか登場しない女たち。光源氏が40歳を超えるところからが第二部『若菜の帖』の始まり。葵の上の兄が頭中将で、頭中将の嫁が四の宮でその息子が柏木。葵の上と光源氏の息子が夕霧。夕霧は大卒で頭が固く野暮である。中年になってから家庭もあるのに未亡人落穂の宮に強引に迫る。夕霧は光源氏を乗り越えられない。柏木は美男子かつ蹴鞠が得意かつ音楽の天才。柏木は蹴鞠中に猫のせいで女三の宮を御簾の間から見てしまい恋をする。形式的には女三の宮は光源氏の正妻だが、光源氏は若い新妻に物足りなさを感じている。しかし柏木に渡すわけにはいかない。柏木にとっては苦労して手に入れた女三の宮の猫の『ねうねう』という声が『寝よう寝よう』に聞こえる。柏木は今さらありがたみが分かった紫の上の看病に付きっ切りの光源氏の留守を盗んで女三の宮を襲う(まぁ柏木の蹴鞠を見に来ていたくらいだからそこまで一方的かどうかはわからないが)。光源氏は女三の宮の懐妊の見舞いのときに偶然柏木からの手紙を見つけてしまい、自分が父桐壺帝にした義理の母藤壺の女御との不義密通を自分もされていることに気づく。しかし女三の宮との無理な年の差婚かつ間男されてしまったことは世間には言えないので自分の子として披露するが、柏木の若さへの嫉妬もある。嫌がらせによって柏木は懊悩し鬱病になり死亡。女三の宮の妊娠によって新妻への愛が再燃したと考えた紫の上と、危機を迎えて紫の上に一番頼りたい時期の光源氏の気持ちが見事にすれ違い、紫の上が死んでからの光源氏は腑抜けになる。長年連れ添った最後の最後の2人の言葉も微妙に噛み合わない。

光源氏が死んでからが宇治十帖。ここからが面白いのである。宇治で若者たちが苦悩する話がここから始まるのである。源氏物語が面白いのは光源氏が死んでからかもしれぬ。なぜなら、光源氏が死んでなお、書きたかった後日譚こそが、紫式部が本当に書きたかったことだからではないかと思うからだ。なぜなら、宇治十帖は、『光源氏が死んだあとは光源氏ほどすごいやつなんてマジで出てこないし、光源氏の後を継いだやつらもそれほどまばゆい器の人間ではなかった、つまり世の中普通の人しかいねぇ。』という一文から始まるからである。舞台も光源氏が死んでから都(みやこ)ではなく宇治に移っている。柏木の子で公式には光源氏の子である薫と、明石の君の娘(明石の中宮)が嫁に行った東宮(今上帝)の息子の匂宮。薫は自分の出世についての疑惑があるせいで優柔不断で根暗な男。匂宮は情熱家で明るく社交的だが薫コンプレックスがある。薫は自然発生的な薫りがあるのだが匂宮は香を炊いてそれに勝とうとしている。薫をいつも模倣しているのだ。匂宮には薫が愛した女性しか愛せないという幼稚なところ、他者の欲望を模倣するところがある。宇治十帖は光源氏の弟八の宮と北の方の間の2人の娘が薫と出会うところから始まる。その2人とは中の君と姉の大君(おおいぎみ)である。しかし薫は大君に拒絶され大君は死んでしまう。しばらく後に見つけ出した大君の異母姉妹こそが浮舟であった。八の宮と中将の君との間で八の宮に認知されていないこの子こそ浮舟であった。中将の君は北の方の身の回りの世話をする役目の身分の低い女だったからである。浮舟は八の宮の私生児であるから正妻の娘たちには引け目がある。だからこそ薫は大君にはあれほど遠慮していたのに浮舟には強く出ることができたのである。薫は大君のように浮舟に振る舞ってほしいと要求し、田舎育ちの浮舟をわざわざ宇治に住まわせたりする。しかも大君の住んでいた家を改築して住まわせるのである。大君のイメージを浮舟に仮託するのである。亡き大君にそっくりの面影を持った浮舟を密かに囲っていることを匂宮が知ると、彼は薫を装って浮舟を襲ってしまう。浮舟は不義を分かっていても匂宮に惹かれていく。浮舟にしてみれば、薫について行くとすれば薫は堅実的なのでずっと守ってくれるが、姉の代わりに愛されるだけなので釈然としない。かといって匂宮について行けば情熱的なだけで本当に自分を愛しているのかはわからないし将来的に不安が残る。浮舟はこの時代(道長政権斜陽期)に現れた自分を見つめて考える自我の強いタイプの新しい女性像だった。これは源氏物語がひそかに収めた源氏物語内の受け身の女性たちへのアンチテーゼではないだろうか。源氏物語は女性像を描き、さらにそれを自分で壊し、破壊の中から新しい創造を見出し、更新しているのである。これは単なるシリーズ化していく物語の自己模倣化とは一線を画す。いかに生きるべきか、と彼女は自分に問うことができる。宇治川に入水した浮舟は川べりで記憶喪失した状態で見つかる。回復した浮舟は、出家して1人で生きていく道を選ぶ。これこそが男女の世の中を超越して書き手として生まれ変わった紫式部自身の姿ではないか。浮舟(紫式部)は記憶を喪失したというより記憶の底からあぶくが浮かんでくるようなものの書き方をしている。自分の考えを自分の筆記によって知らされているのだ。
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