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スウィート ヒアアフターのotomisanのレビュー・感想・評価

スウィート ヒアアフター(1997年製作の映画)
4.2
 三歳の娘の首を切り裂こうと父親がナイフを手に目を据えて迫る。なんて様子にワケを知らなければ相当ホラーだろう。あるいは仲のいい父親とのキスを恋人同士と勘違いされる娘なんて図はどうだ?そこに子どもばかり22人も亡くなるバス水没事故が起きたりしたらどんな物語が生まれるだろう。
 もちろん三歳の娘のトラウマが後々父親を拒みつ頼りつ自暴自棄にもなるきっかけとなったとは語られてはいないし、キッスの二人がさらに踏み越えてしまったかどうかも知れない。しかし、先の三歳児は30年だか40年を経てHIVでヤク中で残骸状態を嫌いなはずの父親、弁護士ミッチェルに怒りと共に助けてくれと訴えてくる。そして、キッスの娘ニコルは相手である父親サムと明らかな疎隔を築きつつある。こんな父娘二組が近づいては離れ去るきっかけがバス事故で、当のニコルはその事故で生還したが下肢不自由となり唯一の事故車中の証人となる。
 映画がつくられた当時、「訴訟ビジネス」が大儲けと賑わって、てっきり弁護士ミッチェルの煽る八つ当たり的訴えが俎板に乗るのかと思ったが、そうではなかった。かと言ってこんな訴訟を得意とするようだから弁護士M.も家庭が壊れるともつかず、壊れた娘と別れた細君の経費を捻り出すには、こんな製造物責任だの無過失責任だの隙がありそうな相手なら誰でも訴えるヤクザな訴訟でボロ儲けを狙わざるを得ないのか?こちらはありそうな気がする。少なくとも破滅を歩むM.の娘のうっすら四十にもなろうというのを情味に乏し気ながらも気遣う父親、そうでありながら受け入れられず怒りを飲み込んで父親に踏みとどまる姿こそ、この物語で最も印象深いのは間違いない。
 一方で、事故の遺族たちは夫々ワンシーンでの紹介に留まりほぼ影も形もなく、弁護士M.が率いる原告団として物事の背景に退いて行く。その中でニコルをベビーシッターに雇い、事故で二人の子を喪ったビリーがM.原告団に対し訴訟取り下げを求める。このビリーの動向に呼応するのがニコルであるのが面白いところだが、この二人の何かあってそれと容易に示されない辺りも、いわゆる「腹芸」でも見てるようだ。
 ニコルのステージパパ的恋人的父親離れ、即、ギタリスト・ビリーへの接近がある意味健康的とも、まあ少なくとも男の子であればあれくらいの年齢なら身近な余所の男性に関心を持つ事は不思議な事では無いのを思えば健康的という事だ。なんにせよ、この同調的な二人が梃子となり弁護士M.と「恋人」サムの「裏切られた父親」連合が転覆する結末にどこかホッとするような一方、何となく歩み出しそうなビリーやニコル、不可抗力的であっても22人の死の過失は過失に違いないドローレスの意外な新天地での生活が示す立ち直りとは裏腹な弁護士M.の明けることのない孤立感が際立って見える。では、ほかのみんなはどうなんだろう?
 弁護士M.の裁判フィーバーがニコルの"115km"証言による原告団空中分解で頓挫して、始まってれば予想された被告側弁護陣によるネガティブキャンペーンを避け得たことで村の薄みっともないザマを野放しにできてそれが良かったかは知らない。しかし、おそらく有罪とはならなかっただろうドローレスが、それでも村には居づらくて皆から無言で背を押され半ば惜しまれ半ば求められ退去しただろう事。ビリーとニコルの何となくできちゃいそうな雰囲気とドローレスを嘘で指したニコルの功罪やや罪寄りという辺りもまた村から弾かれていきそうな感じである事。そしてなにより事の起こり、子どもを根こそぎ失くしたこの土地が二十年後、三十年後をうしないやがて誰もいなくなるであろう事に、語られることのない「物語のもう一方」が秘められていると思う。
 そうと思うとこの村というかコミュニティーといい誰といい"Sweet"を"hereafter"に持っていかれて、どこか滅びの影の這い寄りに一瞬ことばをうしなうようなうそ寒さを覚える。こんな作法でそれを突き付けるエゴヤンに嫌なヤローだなーと断ぜざるを得ない。
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