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チョムスキー 9.11のぶぶこのレビュー・感想・評価

チョムスキー 9.11(2002年製作の映画)
4.5
チョムスキーは「生成文法」論で知られる言語学の大家で、筋金入りの平和主義者として知られるアメリカの貴重な「知性」だ(「最後の砦の一つ」と言った方が正確かも知れない)。「9.11」直後の過度に愛国的な雰囲気の中で彼は「非国民」扱いされたこともあったようだが(フィルムでは新聞各紙からのチョムスキーバッシングのようなコピーがテロップとして流れる)、アフガニスタン、イラクとアメリカが「しでかした戦争(チョムスキーはこれらの行為を明確に「テロ」と呼ぶ)」により、混迷の度合いを深める昨今において、彼の言葉と洞察の正しさが証明されつつある。
このフィルムが作られた直後にこれを見ずに、今見たのはある意味正解だったかも知れない。それは、このフィルムの完成から約二年間経って現時点までの時間が、時の流れに左右されないチョムスキーの言葉の「正しさ」を確認するのに相応しいインターヴァルだと思うからだ。充分すぎる長さにはまだならないだろう。それは、アフガンもイラクもまだ「終わってはいない」のだから、彼の通時代的な言葉はこれから先、何度でも確認して参照すべきものとなるだろう。

フィルムは淡々と講演とインタビューを繰り返して行くだけだが、僕が聞いたのは、まさに「賢者」の言葉と呼ぶべきものだったと思う。チョムスキーが卓越した知識人だなんていうのは、僕ごときが論評するまでもなく、当たり前のことだろうが、何故「賢者」という言葉を使ってまで彼を賞賛したくなるのか。それは、彼が決してペシミスティックにならず、常に笑顔を絶やさず前向きな提言をしているからだ。僕はその様子を見て、非常に感銘を受けた。大袈裟に言うと、知識人かくあるべし、というモデルを彼に見たような気がした。恐らく、エドワード・サイードもチョムスキーのこのような「明るさ」に救われたのではなかったかと想像してしまう。
絶望し、皮肉を言ったりすることは簡単なことだ。それはまさに「凡百」の反応だった(僕も含めて)。しかし彼は違う。彼は一見逆説的に聞こえるようなことを言う。例えば「アメリカは、この2、30年で非常に文明化した」と。これはどういうことか。チョムスキーはヴェトナム戦争から反戦活動をしているが、その時はもっと絶望的な状況だったと回顧する。反戦集会を開こうとすれば妨害される、脅迫される、主催者より少ない観衆、平和なデモ行進にトマトや缶が投げられる・・・etc。ヴェトナム戦争の時、どれだけ非人道的な平気が使われようともアメリカ人は全く無関心だったが、現在アメリカ軍がそんなことをすれば、市民団体が黙ってはいないだろう。そして私(チョムスキー)をテレビの討論番組に呼んだり、こうした講演会を開く自由がこのアメリカには存在する。この事は明らかに30年前よりはアメリカが「良くなっている」証拠なのだ、と。あまりに内向きだったアメリカ人のメンタリティがようやく外へも関心を持つようになってきたのだと。
まだ「絶望するには早すぎる」とチョムスキーは観衆に訴える。二つの道がある、どちらを選ぶかはあなた方次第なのだと。
彼の言葉は、アメリカ政府への「他人事のような」非難では決してなく、アメリカ人へ向けたもの、要するに自分を含めたアメリカ人へと向けたものであって、それ故にその重さが際立つ(「アメリカはアフガンに援助ではなく賠償すべきなのだ」というような発言)。
そして、僕が印象深かったのは、彼の「健全な相対主義」とでも言うべき姿勢だった。彼はアメリカ政府のやり方を「テロ」と非難するわけだが、返す刀でフセインを初めとする(アメリカがテコ入れしていた)無能で有害な指導者への非難も忘れない。アメリカだけの問題ではなく、その時代の一番強い権力を持った国が必ず陥りがちな陥穽を正しく指摘する。サイードも『文化と帝国主義』で、帝国主義を批判しながら、同時に返す刀で、抵抗する側の「原理主義」的な動きを批判していたと記憶している。あと、「対テロ戦争」という言葉は眉唾であるといったり、「戦争犯罪」というのはドイツ(や日本)がやっていて我々がやっていないことの別称にすぎないなど、考えさせられる言葉がインタビューには散りばめられている。
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