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路地へ 中上健次の残したフィルムのニューランドのレビュー・感想・評価

4.1
✔『路地へ 中上健次が残したフィルム』(4.1p)『赤ずきん』(3.6p)『コルシーニ、ブロンベルグとマシエルを歌う』(4.0p)『Zorn Ⅲ(2018ー2022)』(3.8p)▶️▶️

 今は、それ以上の複合メディアも生まれ、映画を総合芸術なんて誰も言わなくなったが、やはり不純度や他芸術への依存度は高い。寧ろ、先行芸術の移し替え·写し取りを本領とする部分も大きく、コピー以上の両芸術の魅力·秘密の引き出し合いを高度に行った3作がPFF·IFFを跨いであった。
 『路地へ』。ずっと観たかった作品だが、都度仕事と被って見れなかった。今回の青山特集も、発売開始日の昼休みには完売。追加上映が、暫くして告知はゲット。しかし、当然出勤の日で、また一苦労。
 そうしてやっと見れたが、個人的には、やはり『AA』に次ぐ傑作だと納得した。劇映画の場合は、特に個人的に離れてもいない近親的地方性、映画として理想と離れてもいない鋭利さで、近しく生々しく何か惹かれると同時に荷厄介な存在だった。黒沢の初期はもろゴダールで安心して見れたが、青山の初期は近しくまた得体が知れず、正直怖かった。近年の批評力のウェイトが増えた作品も、自分の距離の持ち方と変に抵触して、距離が測りづらい。ドキュメンタリーには、素直に感服出来る。
 中上について青山が検証してゆくのではなく、中上を包んでいた、或いはそこから流れ出す、空気といったものに、沿い同化する試みであり、感性·感覚·風情·息遣いを今の時点から遡り掴もうとする作。今は入れ代わり消えた、和歌山県·新宮市の、「路地」と呼ばれた被差別部落の集積地。そこへ至る、或いはそこから外へ出る唯一の道路、そこを延々、青山の盟友·青山より出生地の近い井上紀州がドライブしてゆくだけの、伸びやかも限定された映像の暫くメイン。車中ドライバーの背越し、車からの主観視界、横·所謂車窓光景、もう一台の車からのその車捉えらが、限られるも究めて丁寧·下手な説明はない。西日本特有なのか、ウィンドウの脇に延び来てハネる枝や葉、家の母屋や蔵ら幾つかの共通配置の点在、滑らかで何かが潜んでる。経年劣化の為ではなく、ルックが白い陽光に浸されたようにやや白っぽい。運転中も被り、降りて因縁の地に降りては、井上の「秋幸は~」等の中上作品の朗読がなされ、深い所で呼応してく。その際、因縁の大木等を捉え動くカメラの筆跡·キレが主張なくも万全。そして着いてよりは、中上がかつて(現地で指示して)撮(らせた)る、路地の16ミリフィルムが挟まれる。画調も濃く赤っぽく、カメラの動かし方も一流で、何よりカメラを特に意識しない映し出される人々の自然な柔和さに驚く。現在の同じ地の映像は、建物や路地の建込みをきれいに説明するも、同じ表情は消えている。
 葛藤も狂おしさも消化したような、端正という表現すら消えたような、只、自然さと味わいに流れていく作品で、中上の血が地を上回る瞬間·秘めが、ここでは地がより大きく拡がりなだめ吸い込んでいる。青山の北九州を訪ねる映画が、フォードのアイルランド、スコセッシのリトル·イタリーのように出てくるのだろうか。私は中上も青山もあまり読んだり観たりもしてないので、勝手に思い、感動を作り上げたに過ぎない。どちらにせよ、成熟や敬愛によるのではない、統制仕切れた若さや意気の支配しかけてる、張って·一旦鎮めきった、映画としての起伏排除は得難いものだ。ウェルズの『~アンバーソン~』、ファスビンダーの『エフィ·ブリースト』と近い、張り詰めて全てを表に際出せない力。
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 併映の、フランスで創った中編『赤ずきん』。どういう制作経緯だったのか、全く知らないけれど、100%青山の感覚の作になってる。鮮やかすぎる腕前も、恥ずかしくなる映画ファンぶりも。要の犯罪アクションが、その勘所極め所の反則規則外的な大胆省き·順入替え、比例するかのような映画的溜飲の与え、しかも後腐れ皆無。故にこの作品の内容の謎解きもどうでもよくなってく。バイク絡みスピードフィットや、弱さの現れオシャレ残るダンディズムの女殺し屋や、パリの建屋と自然の絡まり。その幼さや嵌る魅力もそれをわかって、馬鹿馬鹿しさを操るを楽しんでる。女子大生かとも見えた、パリ·セーヌに出没の女は、消えた姉妹と逆転したキャラとなり(疑惑も)、命も賭して、探し求める物がある。捕らわれたりするも、それが行動原点·遺志を継いでる亡祖父と知己の人と判る。正反対の2人が、不思議なタッグを組み、夢に乗り出す。
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 文化芸術史上の人物·その想像の秘密に当たろうとする試み、それもアカデミックというより、ユニークなアプローチをする試みは日本の青山に限らない。3本共、見事に成果が上がってる。
 『コルシーニ~』。アルゼンチンのタンゴの国民的歌手(一番ではないが、それに近いらしく、世代によっては文句なくNo.1との事。また、知られてるが、数的にはタンゴの割合は決して多くはないらしい)の、高名な作詞·作曲の担当者と組んだ、アルバムの、背景を探りその根拠に当たり探る、そして今の歌手で当時のフランクな設備の場所でレコーディングを試してゆく。その車でメンバー拾い集め、該当箇所訪ねあて、その成果を簡易スタジオで、歌詞の地名などについての、解説·コメント入れが録音されてく。地図や現地の該当教会や博物館内らが、歌詞の都度引っ掛かかった現存形として、挟まる。リアルなアルバムの今風探り再構築ドキュメンタリに見せた、フィクションで狙いは別なのか(そもそも新アルバムづくりの全体の一部の1日を収めたふうになってる)。当時を支配した連邦派と対する統一派の社会、歌詞内の教区と該当教会は今どこにあるのか、歌詞の内容の·待ち続ける店の女主人や縫子、恋の相手だったり·捕われ·処刑もされる兵士や女兵士の悲恋、彼女が真に慕ってた英雄的施政者の実態は独裁者か否か、らが場当たり的に持ち上げられ、検証されてく。その独自に自在に入り繰りし、興味が高められてく、構成·ショットの切替·分断の嘘っぽい魅力は、次第にフェイクや下世話好奇心の先にあるものとは違う物へ、画面の中心の様相を変えてく。
 それはブエノスアイレスの街中を走る車の主観移動ショットが、視界を変えながら多用される内、変哲なく白い博物館の壁であったか、動きも少なく続き定着したりする事であり、望遠でレコーディングを繰り返す歌手の姿を捉えるに、カメラのパンが対象のないような誰もいない空間や、カメラ前を過ぎてオフに消えてくを演奏者を捉えを移すべき時にも、力抜き抜き取ってる事だ。印象が何もないかのような所へ長く移る、イメージらである。対象を、事象を超えた拡がり·無為にシフトしてく、感覚が支配するを感じてく。映画とその引用のあり方についての作品でありながら、あまりに長く、あまりに脆弱に見えた、前作の作者の面目躍如といえる、整理を拒んだ巨大で茫洋とした、しかしそれを抜けた、把握の現実超えの可能態である。
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 それに比べると、アマルリックのプライベート·フィルムに近い、私生活のパートナーの縁からの、芸術の創造過程を、丁寧に淀みなく捉えた『Zorn Ⅲ』は、対極の明晰で曇りない秀編であるのだろう。名歌手たるパートナーの、現代歌劇の名作曲家とのメールや稽古場でのやり取りや高め合い、稽古場ではピアニストとの細部調整·繰り返しチャレンジを、延々、しかし常に新鮮で、悲痛でもある繰り返し挑戦も都度何かの更新に見える姿を、アマルリック自らのカメラで、90°変·どんでん·近づいてく、も歌曲に織り込み済みのデクパージュのような筆致で、簡素な場の中描き、新たな外景も加わるコンサートへの到達や、序終の歌劇に近い既存映画の若干距離はあれど頼もしく厚みに繋がる印象のタイトルバック挟みに至る。不可能·限界と中止も途中検討される、高度の正確さ、完璧、劇的夢のレベル、覚悟、即興などなくも常に変移してく進歩の形、凄さ、が音楽に達成されてくが、あくまで柔らかく、茶目っ気すら窺える野心の無意識レベル垣間見え、が凡人にも手に取れるようにしてくれる。パート3らしいが、おそらくこの3倍をぶっ続けで見ても、見る側に緩みや邪心うまれはないだろう。
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