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女は二度生まれるのotomisanのレビュー・感想・評価

女は二度生まれる(1961年製作の映画)
4.1
 有性生殖の仕組みを得て、性分化して生じたオスは既にメスから異性として生まれている。従って、オスで産まれるとはそれ自体、「二度目の生まれ」となっているのである。人生行路で女の踏み石となるべく生きる男には、狩猟や農耕分野で力仕事、技あり仕事の役割が増え、さらに寒冷化や人口圧に負けて大移動を余儀なくされると生き残りをかけた算段と先見の力に無茶を押し通す乱暴力、未知に挑む好戦性がオスの得意分野として生きてくる。
 そうなればもう、女の踏み石ではいられない。そして、一九六〇年代を迎えると、男は生まれながらに世帯の主で家計を預かり妻子を従え、矢面に立つ務めを負って一度きり生まれ、もう考えるまでもなく務めに猛進するのだ。

 では、おんな若尾の人生は女の典型として「二度生まれる」と眺めたものか?
 ともすれば、女の最初の職業とされた遊び女として生きる若尾は男への従属性において古典的な典型性を帯びる。それが主を一人と定めない浮草暮らしという事だが、若尾の周辺には置屋のおんな主や同輩だけじゃない、結婚して夫を持つ夫人、一号さん山岡もいれば、大学に通い若尾と異なる分野での就労の可能性を高める江波のような者もいる。そんな浮草若尾には、生きる糧プラスさびしさとすきま風を埋める相手がぞろぞろ出てくる。彼女をおもちゃ扱いの山茶花をはじめ、準ヒモ的少年まで「遊び相手軸」上の両端がいれば、一方で、そんな若尾が思慕する相手も若い藤巻から父親気取りな風の山村まで「こころの支え軸」もある。

 ところが、おもちゃは軽くても愛玩されるなら、道具の使い捨てとどちらが存在の重さを誇れるだろう。山茶花の愛想のよさをうそ臭いとみるなら、就職の叶った藤巻の取り持ち屋ぶりをどう消化しよう。そんな男たちを向こうに回し、もし山村が存命ならと若尾ならずとも思うところだ。
 その山村は若尾に接する愛人ならぬ家父長ぶりで、奇妙にも「俺がいなくなってもお前は独り立ちで生きなきゃあならんのだ」と若尾に自活の道を迫る。どうも、愛人なのか疑似親子なのか?頭をひねる間もなく山村は死んでしまい、若尾も何を支えに年老いるのだろう。
 何も分からなくなって、おもちゃの少年と向かう山では、忘れかけてた寿司屋の文ちゃんがワサビ農家に婿入りして細君とその連れ子と睦まじそうにしてる。こいつがちょっと怖い偶然の出会いだ。しかし、監督はその場面を放って寄越したきり何も応えない。

 おもちゃを手放して、こころの支えも疾うになく、ニュートラルに離れた文ちゃんの落ち着きをあらためて見出して、こころに映じる我が身を振り返るのだろう。でも男運を問い続けた日々はいつまでも続くだろう、しかし、その片足立ちの覚束なさが身に染みた今、それまでの自分の半身をどう裂けば独り身の残日に生きるよすがを移植できるだろう。
 誰にももう尋ねまい。また、そんな相手もなく若尾の存在は小さく小さく不可分な自らとして佇立する。緑陰の待合室、産まれ変わる苦しみに立ち向かう想像がこれから構築されるのだ。
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