rumblefish

女は二度生まれるのrumblefishのレビュー・感想・評価

女は二度生まれる(1961年製作の映画)
3.7
不見転芸者(みずてんげいしゃ)という言葉は初めて知った。芸者とは言え唄や踊りの能がなく、春をひさぐしかない小えん。山村聰演じる建築士の妾になるが、他の男とも関係を続けていく。悲壮感はなく、どこか飄々としている。

小えんの出自が学生の牧との会話の中で語られる。牧の父は戦死したので靖国神社に祀られているが、小えんの親は空襲で亡くなったため祀られてはいない。つまり、小えんは戦災孤児であった。そしてここには同じ戦争の犠牲者でありながら、明確な差別が横たわる。

建築士の男が亡くなり、10代の工員と上高地に向かう小えん。かつての客だった寿司職人の幸せそう、かつバツの悪そうな姿を見る。工員とは別行動することにした小えんは、建築士にもらった腕時計を少年にあげてしまう。一人駅に残った小えんの遠景で幕を閉じる。

この最後に小えんが生まれ変わる、再生するという意見もあるが、自分にはそうは見えなかった。あの小えんの表情に晴れやかなものを感じない。むしろ、何か思案しているような、それでいて決して後ろ向きではない、何かを感じる。
であれば、なぜ「ニ度生まれる」のか。少なくとも物語の後半では、例えば牧の頼みを断るところなど、小えんはこれまでとは違う意思を示していた。この先、彼女は別の行き方を模索していくのだろうか。ただひとつ感じるのは、これからも男を頼ろうが、男を騙そうが、小えんは何者かに縛られたりせず、むしろしたたかに利用していくのではないか。

小えんは自由だ。